本日からこのテーマで連載を開始する。党首になろうとすると、この問題をどうするか問われるだろうし、自分の見解を整理しておく必要があるからだ。

 

 共産党の公式見解は現在、変えることはしないというものである。その理由として真っ先に挙げるのは、戦前に侵略戦争反対を掲げたことをはじめ、100年の闘いと結びついた党名であって、誇りを持っているからだというものである。

 

 その「誇り」は私も少しは共有する。私も来年は党に入って半世紀だし、ずっと共産党の看板を背負ってきた。

 

 また、共産党という党名を別のものに変えたところで、共産党に対する国民の認識がすぐに変化するとも思えない。メディアだって、新しい党名の後ろに(旧共産党)と説明書きをつけるだろうし、ソ連や中国が掲げてきた「共産主義」を信奉する政党だという解説を変えることもなかろう。立憲民主党を見ても、名前が変わったとはいえ、いつまでも民主党の後継政党だという扱いを受けているし、自身がそういう見方を否定する訳でもないどころか、イメージの良くないはずの「民主党」という略称を選挙の際の使いたがっている。要するに、名前を変えたところで、中身が同じならあまり意味はないということだ。

 

 問題は、その「中身」のことである。共産党がめざす共産主義という社会の「中身」は、「共産党」という党名で表現できるのかということだ。

 

 中国共産党のことは毎日何回もテレビで出てくるので、国民の大多数は共産主義の「中身」とは中国のようなものだと思っている。共産党が独裁体制を敷いていて、香港の民主主義など簡単につぶしてしまい、次は台湾を武力で手に入れることをめざしている。経済的には資本主義より格差が広がっている。2年前までは、そんな「中身」を持つ中国を「社会主義をめざす国」と綱領に書いていたので、余計に同じ方向をめざす党だと思われていたのだろう。

 

 中国のことを離れても、では共共産党がめざす共産主義という社会の「中身」は、「共産党」という党名で表現できるのかということだ。そこが問題である。

 

 まず結論から書いておく。私の立場は、「共産」という言葉は、共産党がめざす社会の姿を正確に言い表していないので、適切ではないというものだ。しかし、かといって、共産主義社会の姿を表現する日本語は存在しないので、替わりの党名をすぐに提案する状況にはない。だから、共産主義とはどんなものかを全党的に討議することを通じて、共産党がめざしている社会が突飛なものではなく、国民の常識的な願望に合致したものであることを理解してもらう必要がある。

 

 そういう党内討議を国民の目の前で公開で行うことによって、党員の共産主義に対する理解も深まるし、国民の共産党に対する共感も高めていくべきだ。そんな感じだろうか。党名を変えろという内外の声を「反共攻撃」と捉えるのではなく、共産党を共産主義に対する党員と国民の共感を高めるきっかけにしようということである。(続)