前にも書いたと思うけれど、70年代に大学で勝共連合、原理研究会批判と闘った身からすると、現在の批判の盛り上がりには少しの違和感が伴っている。いや、盛り上がるのは歓迎なのだが、理由が分からないと落ち着かないという感じだろうか。

 

 霊感商法にせよ何にせよ、統一教会の問題点は、いまも昔も変わらない。被害の深刻さもそうだろう。

 

 だけど昔は、必死に闘っていたのは当事者と弁護士、本流メディアから外れた一部ジャーナリスト、政党では共産党だけという感じだった。ところが現在、ネコも杓子もという感じで、批判しないのはメディアの資格がないという流れだ。まあ、現在が当たり前で、昔がおかしかったのだけれど。

 

 その昔といまを隔てるのは何か。すぐに思いつくのは二つである。

 

 一つは人権意識の高揚。高いツボを買わされて身を持ち崩すということが、昔は自己責任と思われていたけれども、現在は騙した側の責任という意識が強まっていると思う。

 

 もう一つは反共意識の低減。昔は、いろいろ問題のある団体であっても、共産党、共産主義と闘っている団体なのだから、問題には目をつぶるという感覚があったのだと思う。ともに闘う同志としてお目こぼしするわけだ。しかし、その成果が出たというか、共産主義も崩壊し、共産党も低迷する現状で、勝共のために闘うのだと言っても、誰もがポカンという感覚だろう。

 

 それにしても分からないのは、安倍派の議員の低姿勢である。開き直っているのは杉田水脈さんくらいで、下村さんも萩生田さんも弁明に終始しているようだ。

 

 安倍さんは、統一教会のシンボルのように思われて銃撃された。この問題では、統一教会は、どちらかと言えば被害者側のグループに位置する(統一教会を批判する人からは怒られるかもしれないけれど)。だから、安倍さんを師と仰ぐ人たちは、安倍さんが統一教会とともに闘ってきたことを否定するのではなく、堂々と誇るのが筋だと思うのだ。

 

 しかし、それができていない。それが分からないから、このモヤモヤ感が残っているのである。この問題が深掘りされると、これまで明らかになっていないような問題が出て来るのであろうか。それとも、統一教会がこれほどの問題を抱えた団体でなければ、塁が安倍さんに及ぶようなことはなかったのにと、安倍さんを慕うが故の感情に包まれているのか。あるいは、そう考えた時、もしかして自分も対象になりかねないと身構えてしまうのか。

 

 ここでも安倍さんの存在感の大きさを思う。死してなお、なのだ。