私の学生時代というか、正確にいうと学生運動時代というのは、勝共連合(統一協会)との闘いの時代だった。新左翼が勢いを失った大学に原理研究会があらわれた。それまではマルクス主義内の正統性を争う闘いだったのが、マルクス主義の「原理」が間違っているとする勢力との闘いが開始されたわけだ。そして彼らは深く浸透していくことになる。

 

 その点では、安倍さんの死をきっかけにして、再び統一協会に光が当たることは歓迎である。統一協会と日本の政治の関係をオモテに引きずりだしてほしいと思う。

 

 問題は、その視点である。統一協会がカネやヒトを供出して政治に潜り込み、独自の思想を日本で実現しようとした。そういう視点は、一面では正しいとは思う。

 

 しかし、それだけだと、数年前、日本会議が議員連盟をつくって、日本の政治を動かしていると話題になったのと同じである。あれれ、日本政治を牛耳っているのは、日本会議ではなくて統一協会だったんですかという感じになってしまう。

 

 この二つの団体には、似ている政治思想もあるが、まったく異なるところもある。朝鮮半島に対する日本の植民地支配をどう見るかは決定的に違っているところだ。

 

 日本会議がそれを肯定的に見ていることは言うまでもない。一方、統一協会にとっての日本は、朝鮮半島を植民地支配した罪深い国である。統一協会が世界のなかでも日本においてのみ、霊感商法などでだましてでも金集めをするのは、植民地支配の贖罪のために日本人が財政的な協力をするのが当然だと考えるからだ。日本人女性信者が韓国人男性と結婚するのも、同じ思想から生まれている。

 

 その統一協会が60年代、70年代から日本で公然と活動し、影響力を広げられたのは、言われているように、「反共」の一致点で自民党政権と韓国の軍事独裁政権がスクラムを組めたからに他ならない。植民地支配問題は、自民党政権にとってやっかいな問題だったろうが、そこは目をつぶったのだろう。統一協会や日本会議を日本政治の黒幕みたいに描くやり方は、支配の延命のためにはイヤなことも取り込む自民党政治の奥深さというか、ぬえのような性格を捉え切れていない。

 

 現在、日本でくり広げられている統一協会批判は、この時代の追及がベースになっている。しかも、いまや韓国は、当時のような反共軍事独裁国家ではない。だから、統一協会と日本政治の関係というのも、新しい要素を持ったものになっているのではなかろうか。調べたわけではないから、ただの憶測だけれど。

 

 冒頭に書いたように、安倍さんの死をきっかけに、この問題に光があたるのはいいことである。しかし、走る方向を正確に見定めないと、現代にふさわしい追及とはなっていかないかもしれない。関係者の努力に期待したい。(了)