「赤旗」に社青同批判の論文が掲載された直後の「10団体会議」では、私は針のむしろである。いつも中立的な日青協や中立労連まで私を責め立ててくる。当然のことだ。

 

 しかし、私がその論文の誤りを認めるわけにもいかないので、会議の場では批判をつっぱねつつ、水面下で社青同と会談を行って合意にこぎつけるという、綱渡りの手法をとらざるを得なかった。危機的な局面を乗り越えて合意文書にサインしたときはホッとしたものである。その直後に開かれた民青同盟の大会で挨拶した共産党の上田耕一郎副委員長は、統一の合意を高く評価してくれた。

 

 ところで、私はその大会で予定通り民青同盟を卒業したのだが、その後、「10団体会議」をめぐっては宮本議長からさらに強引な指導があり、結局、せっかくの合意は破綻することになった。「10団体会議」には全日本農民組合の青年部が入っていたのだが、そんな団体には農民を代表する資格がないというものだった。いまから振り返ると、当時の宮本氏は、他の分野では独自路線が確立したのに、民青同盟が社会党との関係がある団体と協力関係にあるということ自体を、かなりにがにがしく思っていたのだと感じる。

 

 私は、その経緯に納得していなかったし、共産党は安保条約も含めて異なる考え方の人々との協力を模索すべきだと、その後も考え続けていた。だから、2015年に共産党が野党共闘で政権をめざす方針を公表したとき、心から歓迎したのである。

 

 それにしても、80年代のそういう指導、活動を通じて、共産党のなかでは独自路線というか孤立路線というか、他党との協力で何らかのものを成し遂げていくという考え方は、いったん消滅した。いや、共産党の綱領はずっと統一戦線の立場で変わりがなかったので、けっして理論的には否定されたわけではないが、それを実現するためにも、まずは共産党を拡大強化しなければならないということになっていく。他党は批判の対象である。

 

 私が共産党本部に勤めるようになって、他党から国政選挙で「九条改憲反対」の統一候補擁立の申し出があっても、まともな検討の対象にはならなかった。「どうやって断るか」の理由探しに終始した。

 

 この時期のことをどう総括するのかを抜きに、野党の協力と言っても、心のこもったものにならないのではないか。私は、「10団体会議」での宮本氏の指導は間違いだったと断言する。

 

 では、他の分野での指導はどうだったのだろうか。例えば労働戦線問題では、何の誤りもなかったのだろうか。私は詳細は知らないので、当事者には是非、積極的に発言してほしい。

 

 連合が生まれる経過では、共産党は一貫して正しく、連合が労働戦線を右翼再編した張本人であるという評価は変わらないのか。連合は当時も間違っていて、現在も野党の共闘を妨害していて、共産党は当時も正しく、現在も連合を批判するのは正しいということで、野党共闘は何とかなっていくのか。

 

 共闘路線を本物にしていこいうと思えば、考えるべきこと、反省すべきことは多い。それ抜きに、独自路線のときは共闘路線を毛嫌いし、共闘路線のときは「共闘いのち」みたいになるのでは、ときどきの方針を何も考えずにただ実践しているだけということになりかねない。(了)