この連載の冒頭の最後に次のように書いた。

 

 「この問題で何よりも大事なのは、これが政党の自衛隊論、政党の憲法論ということである。個人や市民団体の自衛隊論、憲法論ではないということだ。個人や市民団体なら、自分(たち)の信念を貫くことがいちばん大事で、信念から踏みはずれるのは裏切りということにもなろう。しかし、政党の役割は別のところにあると思う。」

 

 政党が個人や市民団体と異なるのは、それが政権をめざすというところにある。そして、昨日まで書いたように、政権入りをリアルなものと考えると、自衛隊違憲論が通用しないという現実に志位さんは直面してしまったわけだ。

 

 いや、堂々と違憲・解消論を掲げて政権を取りに行けばいいではないか、そう言う人もいるかもしれない。「正義は必ず勝つ!」とか。

 

 しかし、それはまず、共産党綱領や大会決定の立場に反する。綱領では、自衛隊解消に取り組む前の段階として、日米安保条約を廃棄する段階が不可欠だとしている。この二つを同時にやり遂げるのではない。安保廃棄が民主連合政権が取り組む最初の課題であり、それをやり遂げて「アジア情勢の新しい展開を踏まえつつ」、ようやく自衛隊解消が視野に入ってくるのである。

 

 しかも、その自衛隊解消でさえ、綱領はそれを実現するという立場とは微妙に異なっている。「憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」とされており、民主連合政権では「前進」することだけを約束しているわけだ。

 

 これは科学的社会主義(マルクス主義)の立場からは当然のことである。共産主義社会というのは、憲法九条が想定するような社会で、軍事力のない社会である。軍事力どころか国家権力そのものがなくなる社会である。

 

 そういう社会を共産党はめざしているのだから、憲法九条に親和性があると言えるけれども、しかし軍事力も含む国家権力がなくなるのは、共産主義社会においてであって、民主連合政権ではない。いや、共産党綱領をよく見れば分かるように、共産主義になったら国家権力がすぐになくなるのではなく、「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき」なのだ。

 

 こうして、マルク主義の見地からすると、民主連合政権になっても、社会主義・共産主義になっても、自衛隊がまだ残ることが想定されているわけである。「憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」という微妙な規定は、科学的社会主義の本来の立場と憲法九条とを両立させようとする、苦肉の策と言える。

 

 共産党が社会主義の実現を掲げて選挙を闘い、国民多数が支持するというような局面が生まれたとして、それでも自衛隊解消での国民合意がないので、自衛隊違憲論を主張できない。志位さんの自衛隊合憲論は、綱領が想定するそういう事態を見据えたものである。それでも、社会主義になっても「政党としては自衛隊は違憲」と言い続けるのか、それを国民は納得するのかは、よくよく考えなければならない。(続)