山根隆志さんと言っても、このブログの読者には知られていないかもしれない。共産党本部の政策委員会で現職の政治外交委員会責任者である。25日になくなったということで翌日に連絡があったのだが、故あって公表は本日の「赤旗」となった。残念というしかない。

 

 政策委員会で席を並べたのは数年だが、退職後も、私が東京にでる際には夕食をとりながら意見交換する仲で、年に5〜6回は飲んでいたのだと思う。もっとも最近は4月27日だったが、7月の参議院選挙後には退職したいと考えていて、いつそれを申し出るか悩んでいた。これまでも何回か申し出ていたが、いつもダメだしされていて(それほど求められていたということだ)、今度こそという思いがあったのだろう。

 

 山根さんと私の両方を知る人からは、なぜそんなに馬が合うのかと不思議がられた。だって、山根さんは安保条約とか米軍基地などの調査と分析に長けていて、軍事力批判の急先鋒だと捉えられる向きがあったからだ。方や私は、良くて柔軟、悪くて軟弱路線の代表のように思われているから、水と油だと感じる人も多かったのだと思う。

 

 だけど、ほとんどの問題では意見が一致もしていたし、気心も通じていた。だから東京に出張で行くのが楽しみだった。

 

 まあ、物事に接近する手法という点では、たしかに水と油だったかもしれない。山根さんの厳密さとか深掘りする姿勢とかは、私にはとうていマネができないものだったし、そこをずっと尊敬していた。私なんか、問題の捉え方がだいたい決まったら、あまり細かいことまではやらなくてもいいという主義だったから。

 

 志(こころざし)の人でもあった。よく名前を間違って山根隆と書かれると、志があるんだけどなと怒りながら笑っていた。

 

 もっとも感謝しているのは、私の共産党に対するスタンスをよく理解してくれたことだ。党本部のなかでは、また松竹が党に対して敵対的なことを言っていると批判する人も多いのだが、山根さんは、そういう声を批判してくれているらしく、共産党が国民の目から見て多少でも幅が広く見える可能性があるとすると、松竹さんがいろんな考え方の人と対話し協力していることの意味を理解できるときだけだと、いつも励ましてくれていた。

 

 そのおだてに乗って決意したこともあるんだけどね。それは近く明らかになるだろう。

 

 いずれにせよ、私がいまの考え方を確立し、共産党のなかで頑張ってこられたのは、山根さんがいたからこそだ。退職後にはいろいろやりたいことがあると話していて、それができなくなったのは悲しいのだけれど、とにかく仕事一途の人生だったから、安らかに眠ってほしいと願うだけである。

 

 長い間、本当にありがとうございました。合掌。