一、海外における軍事介入反対の一致点で


<表面上の対決点と実際の対決点は異なる>


 最初に明確にしたいことは、私たちは、何を一致点として九条を守る運動に取り組んでいくのかということです。それは、結論的にいえば、海外で戦争する、海外に軍事介入する国づくりに反対するということです。


 ところで、改憲勢力は、海外で戦争するという文面を九条に書き込もうと、あれこれ画策しているわけではありません。自民党、民主党で議論中なので、まだ確定的なことはいえませんが、〝戦争放棄を宣言した九条一項はそのまま残そう、しかし二項の戦力不保持という規定は自衛隊があるという現実とかけ離れているので、自衛権や自衛隊のことを明記しよう〟というのが、大きな流れになっています。


 これに対して、私たちは、九条の全体を堅持しようと主張しています。自衛権や自衛隊を明記することに反対しています。


 表面上、このような構図になっていますから、国民の目には、あたかも自衛隊に賛成する勢力と反対する勢力が争っているかのように見えてしまいがちです。


 けれども、対決の本質は、そんなことにはありません。私たちは、自衛権や自衛隊に反対しているわけではありません。むしろ、自衛隊は活用しようというのが、私たちの現在の立場です。九条二項の改悪に反対しているのは、それが日本を海外で戦争する国にしてしまうことにつながるから、別の言葉でいえば、だいぶメジャーな用語になってきましたが、いわゆる集団的自衛権を行使できるようになってしまうからなのです。九条改憲反対のたたかいは、その一致点が大切です。


<自衛隊の明記は海外における軍事介入につながる>


 ふつうに考えれば、九条二項に自衛隊のことを明記するというのは、ただ自衛隊が存在する現状を確認するだけのことのように思えます。ところが、それは、日本が海外で戦争する国になるということを意味します。


 このことは、私たちが、勝手に解釈して主張しているものではありません。改憲勢力が正直に表明していることです。自民党、民主党の主張から、代表的なものを紹介しましょう。自民党は中曽根元首相の「憲法改正試案」、民主党は鳩山元代表の「憲法改正試案の中間報告」です。


 いずれの案も、憲法九条一項は残します。そのうえで、中曽根案は「日本国は、自らの平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つため、防衛軍をもつ」としています。鳩山案も、「日本国は、自らの独立と安全を確保するため、陸海空その他の組織からなる自衛軍を保持する」とのべています。


 なんだ、日本を守ることに限定されているではないか、海外軍事介入につながるなんて言い過ぎだと、多くの方は感じるかもしれません。けれども、この二人自身が、九条二項に変えて、このような規定をもうけるだけで、集団的自衛権を行使できるようになるのだと明言しています。


 「集団的自衛権については、……現行の第二項を削除した場合には、第一項において集団的自衛権の保有について、個別的自衛権と切り離して議論する必要性は生じないと考える」「集団的自衛権については、自衛概念の中に個別的自衛権と切り離されず同様に含まれているものとの立場をとる」(中曽根氏)


 「独立した一つの章として『安全保障』を設け、自衛軍の保持を明記することとした。現行憲法のもっとも欺瞞的な部分を削除し、誰が読んでも同じ理解ができるものにすることが重要なのだ。この章がある以上、日本が国家の自然権としての個別的、集団的自衛権を保有していることについて議論の余地はなくなる」(鳩山氏)

 

<国連憲章の規定を利用した改憲勢力のねらい>


 この問題は多少の解説が必要でしょう。


 国連憲章は、いうまでもなく平和のルールを定めたものですが、そのなかには自衛権の発動にかんする規定もあります。それによれば(第五一条)、自衛権は、加盟国にたいする武力攻撃が発生したときに、国連が必要な措置をとるまでの間、発動できる権利だと書かれています。


 ところで、ここでいう自衛権とは、ふつう私たちが考える自衛権、自分の国を守るための権利(個別的自衛権)だけではありません。集団的自衛権も、個別的自衛権と同列に認められることになっています。だから、改憲論者は、〝国連憲章で集団的自衛権が認められている、世界の国はみんな集団的自衛権をもっている、日本だけが憲法九条でもてないようになっているのはおかしい〟と、ずっと批判してきました。


 憲法九条に集団的自衛権を禁止すると書いているわけではありません。それなのになぜ集団的自衛権を行使できないのか。それは、九条には自衛権が明文で規定されておらず、それどころか戦力をもたないとまで書かれているからです。


 そうなっていても、個別的自衛権の方は、禁止されているわけでもないわけだから、国際的、国内的な常識からみて当然だという考え方が定着しました。そして政府は、〝自衛権があればそのための組織は当然だ〟〝自衛のための組織は戦力ではない〟と強弁し、自衛隊をつくったのです。


 けれども、その自衛隊が、国連憲章に書かれているとはいえ、あまり常識的とはいえなかった集団的自衛権を行使することまでは、とても容認できなかったわけです。


 でも、憲法で自衛権とか自衛隊が明記されれば、集団的自衛権を認めるのに何の障害もなくなります。自衛権には二つあるのだから、その両方が認められることになってしまいます。だから、改憲論者は、九条二項に焦点をあて、そこを改変しようとしているのです。


 国連憲章にこんな規定が入ったのは、戦後の世界で自分たちの勢力圏を確保しようとしたアメリカ、ソ連が、それを可能にするための条項を必要としたからです。ですから、実際に集団的自衛権が発動された事例をみると、第二章で紹介するように、勢力圏から離脱しようとする国を軍事力で阻止する例がほとんどです。


<海外での武力行使反対は国民の一致点である>


 このような実績がありますから、国民多数は、集団的自衛権に懐疑的な目を向けています。ことし正月に発表になった日本世論調査会(共同通信と地方新聞各社)の調査によれば、集団的自衛権を行使できないという解釈は「今のままでよい」と考える人が三四%で、「憲法を改正して行使できないようにすべきだ」は二二%でした。国民の過半数が集団的自衛権の行使に反対です。


 集団的自衛権といえば、言葉のなかに「自衛」が使われているように、誤解を生みやすい言葉です。その実態が、いま紹介したようなものであったことは、まだ全国民的な規模では知られていません。その段階で、国民からこれだけの疑念がもたれているのです。


 自衛権や自衛隊についての国民の評価はさまざまです。国民の多数は、自衛権や自衛隊の存在を当然のことだと考えています。


 たとえば、日本世論調査会の調査(〇四年六月)では、九条と自衛隊の関係が問われたのですが、「憲法を改正し、自衛隊の存在を明記すべきだ」が四九%で最多でした。次に多かったのも、「自衛隊は憲法違反ではなく、改正の必要はない」で三一%であり、合計で八割は自衛隊を肯定し、その多くが、だから憲法にも書き込もうという意見だったのです。「自衛隊は憲法違反であり、認められない」とする意見は一一%にすぎませんでした(西日本新聞六月一三日付より)。


 しかし、日本を海外に軍事介入する国にしないという点では、おおかたの国民が一致できます。いま、憲法に自衛隊や自衛権を明記しようと思っている国民も、そのことで海外での戦争ができるようになることがわかるなら、改憲反対の流れに加わってくるのです。ですから、私たちは、憲法九条の二項を変えて、自衛権や自衛隊を明記するということが、国民の気持ちにそったもののように見えても、実際はまったく異なる結果を生みだすのだということを訴え、理解をひろげていく必要があるのです。