市民運動において、イラク戦争ではアメリカが無条件で批判の対象になったのに、ウクライナ戦争ではそうではないのか。国連憲章違反、国際法違反ということでは同じなのに、どこかに違いがあるのか。

 

 ウクライナ戦争でロシア側の事情を強調する人は、ウクライナやNATOの側の挑発があったことなどを指摘する。NATOの東方拡大とかウクライナがドンバスで攻撃を仕掛けたとかだ。ロシアには攻撃する理由があったというわけだ。

 

 しかし、そんなことを言い出せば、イラク戦争でもアメリカ側に攻撃する理由はあった。大量破壊兵器はなかったけれども、フセインはいかにも保有しているかのような思わせぶりな態度をとっていたし(そうした方が攻撃されないと踏んだのだろうけど)、もっと大事なことは、クルド人に対して虐殺行為をおこなっていたことだ。それを防ぐため、アメリカとイギリスがイラク上空に飛行禁止空域を設定し(今回のウクライナ戦争でウクライナ側がNATOに求めているものと同じだ)、イラクの軍用機がクルド人を攻撃できないようにしたけれど、そんなことはお構いなしだった。

 

 ある国が侵略戦争をしたとき、侵略された側にも何か問題がなかったかを抉り出し、問題の背景や解決策を探るという努力は、市民運動にとっても必要なことだと感じる。しかし、その努力が説得力を持つとしたら、どんな侵略戦争に対しても同じ態度を貫く時だけである。

 

 市民運動ではない国際政治学の世界では、今回、無条件のロシア批判が幅を利かせている。それ自体は構わないのだが、率直に言って、そういう学者のほとんどは、イラク戦争では侵略したアメリカ側に立った人である。そして、戦争の結果として大量破壊兵器がなかったことがわかっても、何か反省するわけでもなく、平気な顔をし続けてきた。そんな人が公表する学説なんてクソくらえだと思う。

 

 同様に、市民運動だって、もし今回、ロシアにも道理があると主張するのなら、イラク戦争の時はアメリカにも道理があると発言してきたのか、クルド人に対する虐殺にはどんな態度をとってきたのか、あわせて検証してもらわないと、その主張に素直に頷くことができない。

 

 ただ、そういう運動のレベルではなく、普通の市民感覚として、ウクライナの側に停戦を求める感情が湧いてくるのはわかる。イラク戦争の時は、あの激しい空爆の下で市民がどんな惨状に喘いでいるかは伝わらなかった。しかし今回、目の前で市民が虐殺されている様子が伝わってくる。その戦争を起こしたのがロシアだと分かっていても、もうこれ以上殺されている人を見たくないという感情が、ウクライナに譲歩を求める感情を呼び起こすからである。私はそれに同調はできないけれど、理解はできるのである。