昨日は本を書いていたのだが、その最後に内田樹さんの言葉を引用させてもらった。以下、紹介しておく。

 

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 本書を手にするような方なら、思想家の内田樹氏のことはご存じだろう。私は、3・11の福島第一原発事故のあと、国と東電に責任を取らせることを目標にして開始された生業訴訟(「『生業を返せ、地域を返せ!』福島原発訴訟」)に関わり、裁判のたびに傍聴できない原告のために講演会を開催してきた。その講師の一人であったのが内田氏である。 

 

 内田氏は、そこで理想の社会をめざすことと、それを担う組織のあり方に論を進めた。内田氏はまず、自分も関わったかつての学生運動のことを持ち出した。

 

「かつての過激派学生たちは、過激な言動を弄して、いまある社会制度はあれもダメだこれもダメだ全部ダメだと否定していた。『理想的な社会はかくあるべきだ』と出来もしないことを言っていた。でも、足元の自分たちの組織はしばしばきわめて非民主的で、集権的で、抑圧的なものでした。」

 

 その上で、内田氏は次のように述べたのだ。それが今でも印象に残っている。

 

「僕はその時に、この非民主的で、集権的で、抑圧的な政治党派が仮に政治的成功を収めた場合、彼らがつくり出す社会はやはり非民主的で、集権的で、抑圧的なものにならざるを得ないだろうと思いました。自分たちがどのような未来社会をめざしているのかは、いまここで、その未来社会をめざしている当の運動組織が示さなければならない。その運動組織そのものが未来の『あるべき社会』の萌芽的形態でなければならない。理想を先駆的に実現していなければならない。僕はその時、そんなふうに思いました。でも、もちろん僕のそんな青臭い議論に取り合ってくれる政治運動は存在しませんでした。しかたがないので、それから四〇年、僕は自分一人で『理想社会を先駆的に実現したようなスモールサイズの共同体』を手作りするということをめざしてきました。」(「3・11 は日本に何を問いかけたのか」、かもがわ出版『福島が日本を超える日』所収)

 

 私の議論も青臭いかもしれない。しかし、理想としては認めてもらえるのではないか。そして、理想であるならば、どうやって実現するかは真剣に考え、真剣に議論し、真剣に実践しなければならないと思うのだ。試行錯誤のなかから、なんらかのものを生み出さなければならないと思うのだ。