昨日書いたように、開発途上国が圧倒的多数を占める国連総会は、70年代まで安保理が権限を有する世界平和の問題ではほとんど発言できなかった。しかし、安保理常任理事国をはじめとする大国の侵略の犠牲となってきたのはこれらの国々であって、その怒りが80年代になって爆発し、ソ連のアフガン侵略、アメリカのグレナダ侵略を多数の力で批判できるようになり、名指しの批判にまで及んできたわけだ。

 

 築かれようとしたその国連総会の「権威」が地に落ちたのが湾岸戦争であった。イラクがクウェートを侵略するという事態は、これまで国連総会で仲間として戦ってきた同士の戦争であり、イラクに非があることが明白なのに、仲間であるが故に名指しの批判ができなかったのだ。

 

 それに対して安保理は、冷戦の終了で機能を回復したこともあって、ただちにイラクの侵略を批判し、加盟国に集団的自衛権を行使してクウェートを助けるよう呼びかける。そして武力行使の権限を加盟国に授権する決議を採択し、多国籍軍によるイラクの侵略排除の軍事行動へとつながっていくわけである。

 

 今回のロシアによるウクライナ侵略に際しての国連総会の決議は、そういう点では久々の役割発揮ではある。80年代に大国に立ち向かった時と異なり、アメリカ主導の緊急特別総会(安保理が機能を果たせないときに安保理の多数が特別の手続きで開催される)であるという問題があるにせよ、国際社会の「総意」のようなものを示せるのは、やはり国連総会だよねと思わせるものはあったと思う。

 

 侵略した国に対してこうやって多数で恥をかかせるやり方について、停戦交渉の障害になるのではないかという見方もあるようだ。けれども、戦後長い間、侵略されても声さえあげられない時代が長く続いた時代を知る私にとっては、やはり圧倒的多数の声を結集することは当然であると感じられる。湾岸戦争の時と同じように、侵略した国を名指しで批判もできないならば、国連総会の地位低下は続くことになっただろう。

 

 もちろん、南アフリカのように決議に賛成せず、停戦交渉に意欲を燃やす国があってもいい。というか、そういう国も不可欠である。こうして、どちらに非があるのかを国際社会の意思として示しつつ、意欲と資格のある国が調停、仲裁に挑むという構図が望ましいことなのだと思っている。