それにしても、この連載を書いてきて感じるのは、冷戦の崩壊はきわめて大きな問題だったということだ。61年綱領のアメリカ帝国主義論は、冷戦が開始されたことを大前提につくられたのだから、見直しは避けられないのである。それなのに、「冷戦は終わっていない」という直後の規定が本格的に批判されることもなく現在に至っているのは、理論的な怠慢だと言えるだろう。

 

 アメリカ帝国主義論を転換することは、とりわけ古い党員には拒否感が強いと感じる。2004年の綱領改定の際も、常任幹部会の理論家の中では、「アメリカは絶対に帝国主義国だ。譲れない」という見解が多かった。

 

 しかし、少し考えてみれば分かることだが、アメリカのことを「帝国主義」と特徴づけたのは、つい70年ほど前のことである。それ以前は、米西戦争でキューバとフィリピンを奪った例外はあったが、モンロー主義のもとでアメリカは領土的な野心を持たない国だった。レーニンは帝国主義は先発であれ後発であれ植民地を欲し、そのために戦争するのだと喝破したが、同じ後発のドイツや日本はその通りになったのに、第二次大戦前のアメリカは違ったのである。

 

 第二次大戦後のアメリカは、「帝国主義」という言葉にふさわしい振る舞いをしてきた。とりわけ日本の場合、米軍が大量に駐留し、特権を持って君臨しているので、アメリカ手国主義を「敵」とした61年綱領の規定は正しかったと思う。

 

 しかし、パクス・ブリタニカが終わりを迎えたように、パクス・アメリカーナもいつまでも続くものではない。第二次大戦後になって生まれた特異な現象は、いつかどこかで終焉を迎える。

 

 湾岸戦争で侵略反対の旗頭としての位置に立ったのは、その1つの転換であったが、それ以外にもいろいろな現象はある。

 

 もっとも大きかったのは、オバマ大統領が「核兵器のない世界」を打ち出して登場したことであろう。核兵器はアメリカの帝国主義を物質面で支えるものであって、それを放棄しようという考えがアメリカの内部に生まれ、それを主張する大統領が誕生したことは、帝国主義論にとっても深い考察を求めるものであった。

 

 日本共産党は、アメリカと大企業の言いなりになる日本政治を一貫して糾弾してきたが、オバマさんが登場した時は、「アメリカ言いなりの日本政治」というスローガンが通用しなかった。だって、日本がアメリカの言いなりになって、核廃絶に邁進することのほうが望ましかったのだから。ところが安倍政権は、オバマさんが核廃絶の姿勢を後退させつつも、核兵器先制不使用の方針だけは確立しようとすると、断固として反対の姿勢を貫き、方針を撤回させたのである。アメリカ言いなりどころか、アメリカが「帝国主義」で居続けるよう、アメリカに反旗を翻したのが日本政府であった。

 

 それだけの変化が生まれているのに、アメリカ帝国主義論だけは61年綱領と同じだということでは通用しない。核兵器で世界を威嚇するという点では、中国もロシアも同じなのに、なぜその両国を帝国主義と呼ばず、アメリカだけを帝国主義と位置づけるのか。中国とロシアを帝国主義と呼ばないでも、その覇権主義には断固として反対するという態度を貫けるのだから、その同じ態度は、アメリカを帝国主義と呼ばなくても貫けるのではなかろうか。

 

 他の国と違って、アメリカは軍隊を日本に駐留させているので、他国なみの規定にはならないかもしれない。しかし、日本の主権と独立のための闘いでは、アメリカは特別な位置にあっても、アジアと世界の平和のための闘いでは、中国やロシアと同列においても構わないのではないか。

 

 まあ、難しい問題なので、私も考えることはたくさんあるが、結論めいたものは、まだ持てないでいる。しかし、共産党中央は、理論家の宝庫なのだから、きっと何か考えていることだろう。(続)