結局、日本が核の共有を選択しなかったのは、一方では被爆国特有の日本国民の感情を考慮せざるを得なかったからである。アメリカの核兵器に依存するだけでもそれなりの反発があるのに、その核兵器を他国に投下することに日本政府も責任を負うということになると、反発は半端なものではなかったであろう。

 

 しかし他方、無責任なやり方でもある。だって、日本のためにアメリカに核兵器を投下してもらうという建前はNATOと同じなのに、日本は核の基地でもないし、核の運用にもかかわっていない。だから、相手国民が広島や長崎に匹敵する、あるいはそれらを上回る惨害を被っても、投下した責任のあるのはアメリカであって、日本はあずかり知らぬことだと言い張れるのだから。

 

 非核三原則というのは、その構図をつくるための「まやかし」のような要素を持つ。実際は日本がアメリカにお願いして核兵器を使うのに、そのような自覚を日本国民から奪い去ったわけだ。

 

 一方、日本の世論は、「抑止力の強化が大事だ」となっている。プーチンがこんど核兵器で威嚇したと問題になっているが、プーチンがその際「核兵器」という用語は使っていない。「抑止の特別態勢を敷く」と言ったのだ。そして「抑止」とは、核兵器の運用を前提にした概念だから、各国政府もメディアも「すわ、核兵器の威嚇だ」と飛びついたのである。

 

 日本の世論は、その同じ「抑止力」に期待しているのに、それが核兵器の運用のことだという自覚をしていない。その微妙なバランスが、自民党政治を継続させていると感じる。

 

 だからこそ、せっかく「核兵器の共有」が焦点になっているいま、大事なことは、「そんな議論をしてはいけない」ということではなく、その議論を通じて、現在の日本の安全保障政策の問題点をあぶり出すことであるように思える。

 

 これは、野党共闘で政権をめざす共産党自身、よく吟味しておかねばならないことだ。だって、立憲民主党が政権をとり、共産党が「限定的な閣外からの協力」をする際にも、同じように問われる問題だからだ。

 

 立憲の泉代表は、核共有の議論に否定的みたいだ。実際、彼が言うように、日本の政策の大きな変更になるのだから、拙速な議論は良くないとは言えるだろう。

 

 しかし、立憲は、日米同盟を堅持するというだけでなく、アメリカの核抑止力にも依存するという基本政策を持っている。昨年9月に発表された外交安保政策も、「抑止力の維持」を明言していた。核兵器禁止条約を批准せず、オブザーバーでとどまることにしているのも、現在の世界では抑止力が大事であって、核兵器の禁止に踏み切るような状況になっていないという判断があるからだ。

 

 共産党は、野党共闘の政権においては日米安保と自衛隊に関する自分の立場を留保し、政権には押し付けないという態度をとっている。それは、核抑止力を維持するという立憲の基本政策を、事実上容認することで成り立つ。だって、共産党の立場は押し付けないのだから、そうならざるを得ない。

 

 ということは、立憲がこれまでの自民党政府のように「すべてアメリカに任せる」というやり方をとれば、それでOKということなのだろうか。そして、アメリカの核戦略に関して、日本もまたNATOのようにかかわることになると「犯罪」になって、立憲と連立政権は組めなくなり、野党政権打倒という立場に移行するということなのだろうか。(了)

 これはきわめて悩ましい問題である。だが、アメリカに核兵器を投下してもらい、相手国に惨害を与えることは、どちらの道も変わらない。だから、核の共有の議論を拒否するのではなく(それでは現状がいいということになりかねない)、その議論をきっかけにして、日米同盟を堅持しても核抑止には頼らないやり方を探求すべきではないか、そんな議論を旺盛に起こすことが求められているのではなかろうか。(了)