アメリカの核に頼るが、それを使用することに関する戦略は共有したいというのが、欧州諸国の選択であった。一方、日本では、同じようにアメリカの核に頼るけれども、日本はどう関与するかで紆余曲折があった。

 

 吉田茂時代は、そのそもアメリカに(核)抑止力という概念がなかったので、議論になっていない。その次の鳩山一郎時代にはじめて国会で議論され、鳩山は、アメリカの核を日本に配備することについては、「戦争の防止に必要があるなら」OKと言ってみたり、「日本に貯蔵しなくても力による平和が維持できる」ので「アメリカはそういうことを日本に要求しまい」と言ったり、アメリカの核に頼ることは当然の前提とした上で、日本の反核世論を意識してぶれた発言をくり返した。

 

 岸信介内閣は、いざという時にアメリカの核持ち込みを認める密約を結んだ当事者として知られるから、論評は不要だろう。ただ、改定された安保条約でその際の事前協議制度を求めたことは、日本も有事の核持ち込みを決断する当事者であるべきだと、岸が考えていたことを示すものではある(協議であって合意ではないから弱いものだが)。

 

 同時に、岸内閣時代、自衛隊のなかでは米ソの核戦争のなかで独自の役割を果たそうという動きがあったようだ。60年末から防衛局長になった海原治が、「その頃の幕僚監部の考え方をご紹介しますと、……。核戦争も考えているんですよ。エッと思われるでしょう」(「海原治オーラルヒストリー」)と述べている。そして、その構想をつぶしたと証言している。

 

 池田勇人時代、いわゆるキューバ危機が起きて、世界規模の核戦争が現実味を帯びた。『池田勇人とその時代』(伊藤昌哉著、朝日文庫)によると、アメリカから支持を求められて関係者が官邸に集まって相談し、宮沢喜一(経済企画庁長官)や外務省の中川融条約局長は、こんな危機の時だからアメリカに縛られることはないと進言したそうだが、池田はアメリカ支持を決断したそうだ、

 

 現在につながる日本の態度が決まったのが佐藤栄作時代。それには短い前史があって、ソ連が当時、核兵器を持たず、製造せず、持ち込まない国には核を使用しない義務を核保有国に課すべきだという提案を行ったのだが、下田武三外務次官が次のように応答したのである。

 

 「『他国の核の傘に入りたい」などといったり、大国にあわれみをこうて安全保障をはかるなどということは考えるべきではない、と私は考えている。現在の日本は米国と安全保障条約を結んでいるが、日本はまだ米国の核の傘の中にはいっていない」

 

 大胆な発言である。しかし、これが政府、自民党からの大バッシングにあって、椎名悦三郎外務大臣見解や外務省文書「日米安保条約の問題点について」などが出され、日本の政策が形成されることになる。

 

 その基本は、アメリカの核兵器に頼るが、「日本を核兵器の基地」にはしないというものだった。さらに、外務書文書では、次のようにされていた。

 

 「これらの核抑止力をいかに配備管理するかについて、日本がこれに参画し、または協議に加わることを、米国から求められたことはないし、また日本が米国に対しこのような意味での核戦略に対する参画ないし協議を求めたこともない」

 核戦略への参加は求めないと明確にしたのである。佐藤首相の提唱とされる非核三原則は、こうしたやり方と一体にして誕生した。

 

 いずれにせよ、NATOの欧州諸国とは別の道を行くということだ。同じくアメリカの核に依存するのに、まったく対応に違いがある。これって、どっちがよりましだ、みたいなことが言えるものなのだろうか。

 

 さて、本日は講演会。「ウクライナ危機における9条護憲の訴え方」と題してお話ししてきます。(続)