これら一連の経過が示しているのは、冷戦の終了後、党指導部の一部には現実にあわせて転換をしようとする動きがあったものの、それが実を結ばなかったということだ。党内から逆流が生まれて頓挫してきたということだ。

 

 94年に9条を将来にわたって堅持するという絶対平和主義論を採用したのは、冷戦の終了によって米ソが世界規模の戦争を戦い、それに日本が巻き込まれるという、61年綱領の前提を崩すものだったからだ。この転換は、書記局長になった志位さん主導のものだったが(志位さんと宮本さんの結託というのが正しい)、それなりに道理のある転換であったとは思う。

 

 しかし、冷戦が終わってみて実際に生じたのは、たしかに米ソ戦争という想定は無用のものとなったが(ウクライナ危機の現段階でもアメリカが戦争に応じる気配はない)、中国や北朝鮮などが日本に刃を向ける危険であった。それまでと異なり、日米安保があるが故の危険ではないが、黙って見過ごしていては国民の命に責任を負う政党の役割は果たせない。そこで、94年の方針と矛盾するものであっても2000年、不破さんによる自衛隊活用論の提唱となる。

 

 もしこの時点で、米ソ冷戦を前提としていた綱領の世界観の徹底的な見直しが行われていたら、共産党は現実にあわせて変わっていけたかもしれない。実際、2004年改定の綱領で、アメリカが帝国主義でなくなる可能性を提示したことは、不破さんにはそういう問題意識があったのだと感じる。

 

 しかし、党内でアメリカ帝国主義論を深めようとする人は、ほぼ皆無だったのではないか。しかも、その種の綱領論議を阻み、これら一連の転換のきざしを押しとどめたのは、いつの間にか党内で主流となった絶対平和主義であった。「軍事にかかわることは全部反対」「すべて外交だけで解決できる」という思考が定着したのである。絶対平和主義に立ってしまえば、自衛隊論であれ日米安保論であれ、すべて拒否すべき軍事の世界のことなのだから、社会科学的なアプローチは無用になる。

 

 不破さんも、それに抵抗することはなかった。同じ2004年の綱領改定で中国を「社会主義をめざす国」と持ち上げ、中国からも不破さんを理論家として持ち上げる動きがあると、もっぱら関心をそちらのほうに振り向け、政治のことには関心を示さなくなる。

 

 私が2004年、改めて自衛隊活用論を提唱したのは、不破さんの提起が正しいと思ったからだ。ところが、不破さんを含む常任幹部会からきびしい叱責を受け、自己批判を求められる。

 

 それにしても、そもそも言い出しっぺは不破さんなのに、なぜこんなことになるのか不思議に思い、常任幹部会で不破さんがどんな発言をしたのか小池さんに聞いたのだ。そうしたら、「一言も発言していない」ということだった。

 

 これでぶっちぎれたというか、この問題の政策委員会における担当者だとはいえ、不破さんがやる気がないのに、ただの勤務員でしかない私が批判の嵐のなかで一人で頑張っても仕方がないと考え、私は退職することになる。所属が他の部署なら、この問題に言及しないですむのだが、まさに直接の担当だったので、あのままでは自分の信念と異なることを生涯言い続けるようなことになったのだ。本物の共産党員ならば、死ぬまで本音を言わないで生きていくのだろうけれど、私にはそれはできなかった。不破さんは、構造改革論で批判されたのを何十年もの間じっと堪え忍び、党首になってから挽回しようとしたが、私にはそんな能力も忍耐強さもないし。

 

 その経過は別にして、アメリカ帝国主義論、日米安保論について徹底的に検証し、見直さない限り、共産党が現実にあわせて変化していくことはなさそうだ。連載はあと2回で終わる。(続)