ソ連が崩壊し、冷戦終了論が世界を覆いつくすようになったとき、共産党はまず「冷戦は終わっていない」という態度を表明した。61年綱領の二つの敵論や安保廃棄の課題は、戦後のアメリカとソ連が勢力圏を維持し拡大しようとする冷戦体制を前提とした革命路線だったのだから、アメリカが冷戦を戦わない国になってしまうと、綱領が現実にそぐわなくなる。「冷戦は終わっていない」と説明しないと、路線変更問題が浮上するので、とりあえずの対応としては仕方がなかった面がある。

 

 だから、しばらくは綱領の見直しに踏み込むことはなかったのだが、世界の現実は冷戦終了にふさわしくどんどん変化するので、共産党も個別に対応を余儀なくされる。しかし、その対応が党内の反発を呼び、61年綱領の路線から離れられないという事態が起きることとなる。

 

 最初は湾岸戦争であった。イラクがクウェートを侵略すると、国連安保理は、イラクの侵略を一致して批判し、まず全加盟国が個別的自衛権、集団的自衛権を発動してクウェートを助けるよう呼びかけた。国連憲章51条で定められた集団的自衛権というのは、共産党を含む戦後の左翼の解釈では、アメリカが軍事同盟を世界に張り巡らすためにつくったものであった。ところが、冷戦が終了すると、国連安保理が米ソの一致をふまえてイラクの侵略を糾弾し、安保理が動き出すまでの間は、「全」加盟国に集団的自衛権の行使を呼びかけたのである。さらに続いて安保理は、イラクの侵略を排除するために軍事力で介入することとし、アメリカが主導して多国籍軍が結成されることになる。

 

 これは戦後左翼の世界認識に対する挑戦でもあった。日本の共産党は、それにすぐに対応し、多国籍軍が結成される以前、沖縄から在日米軍が集団的自衛権の行使のために湾岸地域に出動するに際して「反対しない」という対応をとった。共産党の歴史上、初めてのことだ。

 

 さらに、多国籍軍が動き出し、イラクを占領地域から排除するための軍事行動をとるようになると(湾岸戦争)、これにも反対しないことを明確にした。そして、実際に戦争が始まると、開始された戦争はその目的(クウェート占領地域からのイラクの排除)を達成して早期に終了することを希望するという態度をとった。アメリカ主導の戦争を容認したのである。綱領が予想しない展開であった。

 

 綱領の世界観というのは、アメリカが世界各地で侵略し、社会主義国や開発途上国が侵略の犠牲者となることを想定していた。実際、ベトナム戦争などそれまでの世界では、この世界観はそれなりの妥当性を持っていたのである。ところが、冷戦が終了してみると、開発途上国が侵略する国となり、なんとアメリカが侵略された国を助ける先頭に立つことになった。この劇的な転換に、共産党はなんとか対応できたと思う。

 

 ところが、党員の多数は、それについていけなかった(それ以外の護憲派左翼も同じだ)。労働組合や平和団体、婦人団体で活動している党員は、共産党の対応に不満を募らせ、多国籍軍の戦争に反対することを決め、集会を開催することになる(共産党は自分は参加しないが、労働組合などが開くことには関与しないという態度をとる)。全体として護憲派、左翼を見回したとき、共産党のような対応はごくごく一部に過ぎなかった。

 

 イラクがクウェートを侵略した時には、これら労働組合などの団体は、イラクを批判するための集会などは開かなかったのである。ところが、アメリカがクウェートを助けるために軍事行動を起こすと、そのアメリカを批判する集会は開くのである。侵略は批判しないで、侵略された国を助ける行動は批判するのだから、誰が見ても道理のない対応であった。国際政治学者の高坂正堯さんは、保守的な立場で知られていたが、それまで憲法九条には「絶対的価値」があるとして護憲の立場を貫いてきた。しかし、この時の護憲派の態度を見て失望し、その後、改憲派の側に移行する。

 

 共産党自身も中途半端であった。こういう転換を行ったのだが、労働組合や平和団体などで活動する党員を説得するようなことはしなかった。その転換に沿ってアメリカ論を深めたりすることもしなかった。直後に共産党が顕彰する野呂栄太郎賞を受賞したのは、湾岸戦争でのアメリカの対応をきびしく批判した『湾岸戦争と国際連合』(松井芳郎)であったりもした。61年綱領の影響力恐るべしである。(続)