この連載の筋から離れるのだが、関連はするので、論じておきたい。国会で共産党を外す野党の議論の枠組みができて、共産党が強く反発し、結局、立憲がそれを謝罪したという問題である。これは、野党の共闘に携わるような人々の中でも、野党の共闘ついての理解がほとんどないことを露わにする恥ずかしいできごとである。

 

 総選挙の前後、ずっと問題になってきたのは、野党が政権で共闘する問題であった。それを支持するにせよ批判するにせよ、あくまで共産党と政権をともにできるのかをめぐる問題だったのである。

 

 政権をともにするということは、閣内にせよ閣外にせよ、特別に大きな責任を伴う問題である。国民に対してある政策を約束し、それを実現するかどうかという問題である。だから、共産党だって、できもしない安保廃棄や自衛隊解消は棚上げするということまで約束し、選挙に臨んだわけだ。それでも、そんなことが可能なのかという国民の疑念は消えず、あの結果になったわけだけれども。

 

 一方、ここ数日問題になっているのは、国会の運営をめぐって野党がどう対応するかという問題である。政権をどうするのかとは、まったく関係がない。そして、実際の国会運営においては、与党の国対委員長と、野党第一党の国対委員長が協議をして進める場面が多いから、野党第一党が他の野党のことを考慮して進めることになる。

 

 共産党の小池さんが、維新は野党ではないといきがっているけれど、たとえ政策面で自民党と共通するところが多くても、国会で野党であることに変わりはない。立憲が国会運営において維新をくわえて協議するのは当然なのだ。

 

 20数年前の細川政権の頃を思い出してほしい。あの時、野党は自民党と共産党だったが、どれだけ密接に協力しあって細川さんの佐川一億円疑惑を追及したことか。自民党の加藤幹事長と共産党の志位書記局長がどんなに親しく付き合って動いたか。

 

 小池さんの弁をそのまま使うと、たしかに自民党に野党の資格はなかったかもしれない。だって、細川政権は自民党の基本政策を踏襲することをうたって成立したものであって、細川政権と自民党政権の基本政策はほぼ同じだったのだ。それでも、国会共闘はドライな共闘であって、多数を占める政権に対して、野党が協力し合うのは当然のことなのだ。国会で共闘したとしても、政権での共闘につながらないことは、自民党と共産党の連立があり得ないことでも明確ではないか。

 

 謝罪した立憲も同じレベルだが、そんな国会共闘と政権共闘の違いも分からないで議論が進んでいくことには、本当にこの国の野党は大丈夫なのかという不安を感じてしまう。(続)