前回に書いた出来事は1987年から88年にかけてのこと。その結果、キューバは、国連人権委員会の特別手続の対象国になることを免れた。

 

 ところが、91年、事態は反転する。キューバが対象国となっただけでなく、90年代を通じて、国連人権委員会の場でもっとも批判を受ける国になったのだ。

 

 その契機となったのは、いうまでもなくソ連・東欧の崩壊である。それ以前は、キューバを特別手続にかけることに反対していたこれらの国々が、一転して賛成することになり。決議が過半数で可決される状況が生まれたわけである。しかも、ソ連・東欧との経済関係がうすまり、アメリカの経済制裁が強まって、キューバ経済が疲弊し、出国者が急増して難民問題が深刻化したことも背景にある。

 

 こうしてその後、キューバの人権問題に関する特別報告者が設置され、調査が行われ、翌年の会議に報告が提出されて審議され、批判決議が採択されるようになる。それがくり返されるわけだ。

 

 ところが、そのくり返しは、97年で終わった。98年の会議にもアメリカはキューバの人権状況を批判する決議案を提出したが、それは否決されてしまった(賛成16、反対19、棄権18)。この直接のきっかけとなったのは、すでに紹介したが、この年、ローマ法王がキューバを訪問し、299人の政治囚が釈放されたことであった。

 

 その後、2002年になって再び特別手続がとられることになったが、設置された報告者の名称は、それまでの特別報告者ではなく、人権高等弁務官の「個人代表」ということになった。公的な性格を薄めたわけだ。

 

 名称が変わっただけではない。その個人代表が提出した報告は、それまでとは内容的にも異なっている。もちろん、平和的な言論・表現の自由が侵されていることへの明確は批判はある。しかし一方で、アメリカが40年前に開始し、92年以降に強化した経済制裁がキューバにおける経済的・社会的権利の実現を阻んでいることが指摘され、それがキューバの反発を招いて人権侵害立法の制定につながっているとする。また、キューバが社会権の分野でさまざまな達成をしていることは、率直に評価されている。

 

 この報告にもとづき、決議は採択された。しかし、そこにはキューバの人権状況に対する批判は書かれなかったし、改善のための勧告もされなかった。そして2007年、改組された人権理事会は、キューバを特別手続の対象から外すことを決めるのである。

 

 この一連の経過から学べることは少なくない。(続)