こうやって難産だったが、国連憲章の理念に人権と自由の擁護が書き込まれ、人権委員会も発足することになる(のちに人権理事会に名称変更)。世界人権宣言という崇高な理念を描いた文書も採択された(ソ連など社会主義国は言論の自由がうたわれてもそれを支える物質的な保障抜きには無意味として棄権した。西側の国は国家が物質的保障を与えるとなると国が援助する言論と援助しない言論を区別することになるのでそれには与しなかった。どっちが正しかったかは明らかだ)。

 

 当然のことだが、国家に抑圧されている人々の期待は高まり、国連には救済を求める訴えが殺到することになる。しかし、国連憲章にせよ世界人権宣言にせよ、理念はうたうが、実際に人権が侵害されたときの措置は何も書いていない。訴えられた国家は、国内の人権問題を国連が取り上げるのは内政干渉だと反発する。

 

 その結果としてどうなったか。人権委員会は、「人権侵害に関する申し立てについて、何の行動をとる権限も有していない」と決定したのである(47年2月)。欧州諸国は昨日書いたように植民地における人権問題を取り上げられたくなかった。アメリカも黒人差別問題を抱えていた。ソ連などは弾圧の真っ最中だった。そこで「赤信号みんなで渡れば恐くない」と結束してそういう決定をしたのである。国際人権法の専門家であるフィリップ・オールストンは、この東西の協力を「邪悪な同盟」(unholy alliance)だと侮蔑的に描いている。

 

 この結果、人権委員会では人権問題は議論されない。実際に国連で議題になるのは、自由に発言できる総会の場で、植民地から独立したアフリカ諸国などが、南アフリカのアパルトヘイトに限って取り上げるような状況が続く。アフリカ諸国は、それを人権委員会でもやろうと次第に攻勢をつよめた。

 

 それに乗っかかったのがソ連など社会主義国。欧米批判に使えると思ったのだ。欧米諸国は困った。そこで、ソ連の人権問題も取り上げればいいのだと開き直り、人権委員会ではアパルトヘイトだけではなく「すべての国」の人権問題を取り上げようと逆提案したのである。

 

 こうして人権委員会の47年の決定が覆されたのは、20年も経った67年。人権委員会は、「すべての国、とくに植民地その他の……人権および基本的自由の侵害の問題(人種差別・隔離およびアパルトヘイト政策を含む)」と題する議題を毎年議論することを決めたのである。大規模な侵害の場合は「徹底的に研究」し「勧告する」ことも決めたのだった。

 

 この変化を生みだしたのは、基本的には世界の人々の闘いである。植民地が独立し、欧州諸国も批判を気にしないで済むようになったこと、アメリカの公民権運動が広がり、黒人差別が建前としては解消に向かったことなどである。社会主義国の人権侵害はまったく改善されなかったけれどもね。

 

 ということで、人権問題は国際問題だという現在の世界の流れは、アメリカや欧州や社会主義の妨害に抗した旧植民地諸国がつくったものだ。ところが現在、そういう旧植民地諸国自身が国内の人権問題を抱えたままになっているのは、皮肉としか言いようがない。(続)