猫も杓子も「外交ボイコット」を唱える時代である。そんな言葉、これまで使ったことはおろか、聞いたことさえなかっただろうに、「当然だ」みたいな大合唱になっているのには困ったものだと感じる。

 

 人権問題って、そんなことで何とかなるなんて問題ではない。北朝鮮の拉致を含む重大な人権侵害について、もう何十年も国際社会が結束して批判し、核やミサイルの問題もあって経済制裁を強めているが、一ミリも事態が動かないことだけでもそれははっきりしている。ましてや、相手は中国だ。それなのに、外交ボイコットに参加する国を増やすことが中国の人権問題へのカギだみたいなことを本気で唱えるとしたら、本当に幼稚というか不勉強としか言いようがない。そんなことで弾圧されている人々を救えると真剣に考えているのだろうか。

 

 いや、批判は大事なのである。というか、問題の前提である。人権問題を「国内問題だ」と言い張る国(現在は中国)に対して、重大な人権問題は国際社会が関与すべき国際問題でもあるという認識、慣行が確立されてきた戦後の人類の努力を示し、完膚なきまでに論破しなければならない。

 

 その努力を知ることも、現在の軽佻浮薄な「外交ボイコット」論を正すため、多少は意味があるかもしれない。だから、まずそのことから始めて見よう。

 

 重大な人権侵害が国際問題であるという認識は、まずは国連憲章に出てきたものだ。それ以前の国際条約にはなかった。何よりも憲章前文の冒頭でそれが確認されている。

 

 「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し……」

 

 そう、国連と言えば平和の機構というイメージが強いが、平和と並んで「基本的人権」は国連設立のそもそもの趣旨なのである。第一条の「目的」でも、1で平和の維持が、2で人民の自決権があり、3では人権擁護が次のようにうたわれている。

 

 「経済的、社会的、文化的又は人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること。」

 

 だって当然だろう。国連って、ドイツによるユダヤ人ジェノサイドが大規模な戦争につながった(日本における人権侵害もだが)ことをふまえ、その再現を阻止するために生まれたのである。41年のルーズベルトの「四つの自由」の提唱、戦後の国際組織に言及した翌年の大西洋憲章などで、戦争目的として人権の擁護が明確にされた。だから、人権の擁護はいっきょに国際問題に躍り出たし、国連はそのために設立されるのだと考えられた。

 

 いや、そのはずだった。ところが、1944年のダンバートン・オークス会議で決まった国連憲章の草案には、このような人権問題への言及はほとんどなかったのだ(自衛権の規定もなかったことは有名だが)。あれほどの虐殺を前にして、それを克服するために5000万人もが犠牲になっても、その程度だったのである。(続)