私が若い頃、「批判」という言葉はあったけれど、日常生活でそれほど意識して使われるものではなかった。その私にとって、「こういものを批判というのか」と思わせる本格的な「批判」との最初の出会いは、『資本論』であった。

 

 

 よく知られているように、この本、サブタイトルは画像を見ていただければ分かるように、「政治経済学批判」となっている。「批判」という言葉は、分析する「資本」という対象を、これほどまでに批判しつくした際に使われるべきものだと、当時実感したことを覚えている。

 

 これって、別に『資本論』やマルクスに限られることではなかった。それはカントの三つの批判書(『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』)を思い出せば分かることだ。これだけの批判をやれかたら、カントは認識論に大転換をもたらしたわけである。

 

 そこでウィキペディアを引いてみると、「批判」という項目はなく、「批評」にくくられている。英語やフランス語でも(critique)、ドイツ語でも(Kritik)、あまり違いはないらしい。そして、こういう解説がある。

 

 「さらに今日の哲学におけるcritique(批判・批評) という単語は「概念(concept)・理論(theory)・研究の方法論や原理(discipline)、あるいはそれらを用いた具体的な分析手段(approach)などについての諸条件や因果関係に対して、体系的な問いを立てること」「またそうした概念・理論・方法論・分析手段の限界や妥当性を理解しようと努めること」というような意味に拡張されている。」

 

 立憲の代表選挙で使われていた「批判」という言葉は、どう見てもこの種のものではなかろう。「体系的な問い」などどこにもなかった。ウィキペディアでは続いて、次のように述べている。

 

 「なお、このような現代的意味におけるcritical(批判的・批評的)なアプローチと対立する思考法を「ドグマ的アプローチ」、すなわち「独善的に決められた法則を、決して疑わないような思考法」と呼ぶ。」

 

 実際に使われている批判の意味は、こっちのほうだろうね。そしてそれは、「critical(批判的・批評的)なアプローチと対立する思考法」だとされているのだ。

 

 私が若い頃の日本共産党の文献には、ここで言う従来型の「批判」が少なくなかった。とりわけ国際問題でのソ連共産党批判などは、その批判を通じて、科学的社会主義の理論をそもそもどう考えるべきか、社会主義はどうあるべきかという「体系的な問い」が立てられ、深く学ぶことができた。

 

 その種のものが絶えて久しいけれど、読んでうなり声を上げるような「批判」を、徹底的な批判を、いつか野党から聞かせてほしいものだと感じる。野党は批判ばかりというのは正確ではなく、批判が本格的ではないことが問題なのである。(了)