母の突然の入院から逝去まであっという間で、かつその後の喪主としてのあれやこれやがあり、平行して行われていた総選挙には何のコメントもできなかった。時間が経ったとは言え、考えておくべきことが山積みなので、少し論じてみたいと思う。

 

 立憲民主党と共産党の一人(二人?)負けが最大の特徴なので、その理由があれこれ論じられている。そして、立憲が安保廃棄・自衛隊違憲の共産と組み、安全保障政策で野合するなどして、ぐっと左傾化したことが敗因であるとする論調が1つの流れとなっているが、それはどうなのか。

 

 私も、野党共闘があまりに左傾化していると見えたことが、有権者の反発を生んだことが敗因の1つだと考えてはいる。しかし、その左傾化は、立憲が共産と組んだことによって生まれたものではなく、立憲自体の左傾化であり、それが嫌われたのだと感じる。共産党と候補者を一本化した小選挙区では多少なりとも前進したのに、比例区で激減したのは、それでしか説明がつかない。

 

 私事でバタバタしながら選挙報道を見ていたのだが、枝野さんの反自民の姿勢は誰よりも強固だったように思えた。志位さんなどと中身はあまり変わらないのだが、その口調に代表される激烈さは、志位さんが時として柔和に話す様子も見られたので、党首のなかでも突出していた。

 

 語り口調だけではない。中身としての問題は、選挙のメインスローガンとして採用した「変えよう」である。

 

 これって、自民党政治を全否定するスローガンのように見える。しかし、客観的に自民党に投票する人のほうが野党に投票する人より多い現実があって、自民党政治の全否定を掲げていては、それを望む少数の人の熱狂的な支持を得ることができても、国民多数のものにはなっていかない。

 

 しかも、ちぐはぐというか、枝野さんはずっと前から、自分の立ち位置を自民党の宏池会と同じだと言ってきた。自民党のある部分との親和性を売り物にしてきたのである。

 

 それなのに、安倍さんや菅さんの時代ならともなく、その宏池会の代表である岸田さんと争うに際して自民党の全否定という立場に立ってしまっては、かつての言明の信頼性にさえ疑問符が付くことになる。

 

 「こうなったのは共産党のせいだ」と説明する人もでてくるだろうが、何の関係もない。安倍政権が超タカ派の右翼政権に見えても、労働者の賃上げのために動いたり、戦後70年談話で「侵略」「植民地支配」「反省」「お詫び」のキーワードを取り入れたり、実際はウィングを中間層から左に伸ばしているのに、ずっと「反安倍」「反自民」で固まってきたのが、立憲民主党のこの4年間だったのであり、そこを猛省する必要があると感じる。(続)