1945年2月にヤルタ会談で国連安保理常任理事国には拒否権が与えられることが決まり、五大国の一国でもそれを発動すれば、国連の機能が発揮されないことが現実のものとなる。そういう場合にどうするのだと心配したのがラテンアメリカ諸国であり、自分たちがつくった地域的な集団安全保障取り決め(チャプルテペック規約)は拒否権があってお機能するような規定を憲章に入れろと要求したのである。

 

 ここまでは誰でも知っている。アメリカの配下のようなラテンアメリカ諸国が要求したものだから、これはアメリカの策動だろうという思い込みが生まれたわけだ。

 

 これに対してアメリカは当初、侵略にたいする個別的自衛権のみを国連憲章に入れる方式を考えたようである。しかし、ラテンアメリカの要求は地域取り決めにかかわるものであり、それだけでは満足を得られない。そこでアメリカは、イギリス代表団との非公式協議、五大国の非公式協議を通じて、次のような51条の案を作成した。

 

 「安全保障理事会が侵略の防止に成功せず、国家による加盟国に対する侵略が発生した場合には、当該加盟国は自衛のために必要な措置をとる固有の権利を有する。武力攻撃に対して当該自衛措置を取る権利は、国家グループのすべてのメンバーがその一国に対する攻撃をメンバーすべてに対する攻撃を考えることに同意するチャプルテペック規約に具体化されるような協定あるいは取極にも適用される。」

 

 侵略の場合は個別的自衛権が、武力攻撃の場合は集団的自衛権が発動できるという規定である。ご存じのように、最終的にはどちらも武力攻撃の場合に発動できると修正されていくのだが、注目してほしいのは、ここではじめて武力攻撃の場合の自衛という概念が生まれたことである。

 

 それまで侵略された場合に自衛できるというのは、諸国家共通の理解であった。しかし、何が侵略かは定義されたことがなかったので、「侵略されたぞ」と宣言すればかなり自由に自衛権が発動できるというのが、それまでの理解であった。それに対してアメリカは、集団的自衛権の場合には、「武力攻撃」という高いハードルが必要だということを示したのである。

 

 この草案に対して、フランスは、「安全保障理事会が決定に至ることができなかった場合には、本機構の加盟国は、平和、権利および正義のために必要と考えるよう行動する権利を留保している」とする修正案を提示したらしい。

 

 しかし、これだと安保理が機能しない場合、加盟国が事実上何でもできることになる。アメリカはフランス案に対して、「国家による完全な行動斧自由を認めるものであり、そうした行動は国際連合の目的を破壊することになる」と強く反論したそうだ。

 

 この時期(5月)のアメリカは、大統領がトルーマンになっていたとはいえ、ルーズベルトの死(4月)から少ししか経っておらず、国連憲章会議に臨んだ代表団はまだ理想主義的な面を色濃く残していたと言えるだろう。(続)