本日で最後。佐藤さんの不破哲三論である。

 

 「正論」の対談の最後に、「不破哲三研究」という見出しがあって、まとまって論じられている。この研究を「構想として持っている」と佐藤さんが言っているので、近くこのテーマで出版するのかもしれない。

 

 佐藤さんの不破論には、当りも外れもあると思うが、意味が分からないのは「構造改革論」である。不破さんが1950年台後半、構造改革論に傾倒したのは有名な話だが、佐藤さんが不破さんの「「構造改革論」は三つ子の魂百までとみています。……不破っていう人は意外と変わっていない。これは私のとりあえずの仮説です」と言っているのは、そのうちの当りだと感じる。

 

 ただし、いま引用しなかった……の部分は大外れだ。何を引用しなかったかというと、「構造改革においては暴力的なものも当然あるんだという前提できている」というところである。

 

 これって、そもそも、構造改革論の捉え方がおかしいだろう。誰もが常識的に理解しているように、構造改革論って、「運動がすべてだ」という有名なスローガンでも言われているように、革命を否定し、資本主義のもとで改良を永遠に続ける立場だとするのが普通だからだ。そこには暴力を肯定するどんな要素もない。

 

 そして、「不破っていう人は意外と変わっていない」というのが当りだと思うのは、現在の不破さんの「資本論」研究が、その構造改革論とつながっている要素があるからだ。以前、ある若手のマルクス経済学者からメールをもらったのだが、不破氏の恐慌理解は商業資本(金融も)に恐慌の根本的要因を求めており、資本主義的生産自体には恐慌を規定する要因はないと読めることを指摘し、これでは金融投機や投機的商業取引がなければ恐慌=資本主義の根本的矛盾は生じない、との考えにつながると述べておられた。

 

 この間、不破さんは、共産党がなくても社会主義は実現すると説くなど、革命の捉え方の大きな転換を主導してきた。いまの「資本論」研究は、その集大成ともいえるものである。

 

 こうやって、どんどん暴力革命から遠ざかっているのだから、公安調査庁的には本来なら歓迎すべき事態なのに、共産党を暴力革命に結びつけないと商売あがったりになるので、とにかく何でも暴力革命というふうになっている。佐藤さんもそこから脱しきれていないのではなかろうか。

 

 佐藤さんはこうも書いている。

 

 「不破哲三氏は「金日成化」すると思います。志位氏や小池書記局長はイデオロギーをつくる力がない。永遠に日本共産党が生き残るためには不破思想を定着させなければならない。金日成著作集の編纂作業に似ています。今後はテキストが支配していく政党になると思います」

 

 私自身は、そういうことになるならば、全力で阻止するという立場である。これが現実のものになるのか、それともならないのか。そこは不破氏の「資本論」研究が党内でどう受け止められ、議論されていくかにかかっているように思える。いまから青森空港経由で秋田の大館へ。(了)