『枝野ビジョン』が描く社会像は、枝野さん本人が意識しているかどうかは別にして、かなり刺激的なものである。使っている政策の言葉は、誰もがいつも使っているものとあまり変化がないように見える。例えば、「原発から脱却し、「自然エネルギーシステム」の構築を」とか、「老後の不安をなくして高齢者が安心してお金を使える環境を」とかだ。

 

 しかし、『枝野ビジョン』は、たんに小泉政権以来の新自由主義政策の問題点を指摘しているだけではない。そういう言葉を使っているわけではないが、資本主義システムそのものが行き詰まっているという認識である。例えば……

 

 「「経済の量的な成長で国民を豊かにする」ことをひたすら追い求めてきた「近代化モデル」は、もはや限界に達している」

 「私たちは、明治以来一五〇年進んできた社会のあり方が今後は通用しないこと、過去の成功体験が役に立たないことを直視しなければならない」

 「これまでの延長線上で打開策を模索しても、答えは見つからない。なぜなら、……これまで歩んできた近代化の中で所与のものとなっていたはずの現実が、前提として成り立たなくなっている時代だからである」

 

 「明治以来」というからには、批判の対象になっているのは、ここ20世紀末から幅を利かせてきた新自由主義だけではな。枝野さんは、「本源的蓄積」など社会科学の用語は使わないが、明治で生まれた資本主義そのものが行き詰まっているという認識なである。

 

 それに替わって提示されるのが、「支え合う社会」である。また引用する。

 

 「近代化の加速によって核家族化や都市化が進み、家族共同体や村落共同体などにおける支え合いや助け合いといった日本社会伝統の構造が崩れてきた」

 (しかし、家族共同体や村落共同体には封建的・前近代的な負の部分があったので)

 「これからの社会に求められているのは、政治と行政が、日本という「社会」の単位で互いに「支え合い、分かち合う」ための機能を果たすこと。それによって「リスク」と「コスト」を平準化し、自助だけでは逃れられない「不安」を小さくすることだ」

 

 立憲民主党の中からは、共産党との基本政策の違いが指摘され、だから連立なんて無理との声が多い。けれども、枝野さんの社会像というのは、どちらかというとコミュニズムである。その言葉は評判が悪いが、現在よく使われている言葉で言うと「コモン」である。

 

 だから、安保や自衛隊をめぐる政策の違いは大きくて、立憲内の不安は理解できるのだが、経済社会像だけを取り上げると、枝野さんに近いのは共産党であって、立憲内の多くの人は枝野さんの認識に着いていけないのではないか。(続)