オリンピック、パラリンピック問題をめぐる議論は、日ごとに激しさを増していますね。これは難しい問題です。

 

 中止派にしてみれば、五輪開催そのものがコロナで危険にさらされている命を奪うものになっているので、開催を前提にしたいろいろな動きは、まさに憎しみの対象になっているのでしょう。一方、開催派からすると、演劇や音楽などの催しも含め、心が癒やされる企画まで奪うのが正しいのかという思いがあり、すべてがコロナ対策に押しつぶされることへの批判があります。そして残念ながら、その憎しみの言葉が強ければ強いほど、世論が高揚していくわけです。

 

 少し性格は違うけれども、3.11後の福島をめぐる議論を思い出してしまいます。福島に止まった人たちと避難した人たちの分断と対立をです。

 

 私は、すでに書いたことですが、五輪は、開催直線の状況がステージ4なら躊躇なく中止で、ステージ1ならどうぞ開催しましょうという立場です。2や3なら微妙かな。尾身さんが言っているように、3だけど2に向かっているのかリバウンドが起こりそうなのかという判断が必要でしょうから。

 

 ところが、五輪が近づいているとはいえ、現時点での感染状況を前提に議論がされるので、中止派と容認派の対話の糸口が見えないわけです。困ったことです。

 

 五輪中止派と言っても、いろんな人がいると思うのです。コロナがあろうがなかろうが五輪には反対で、コロナを政局に利用している人もいるでしょうが、ほとんどは本当に医療現場の逼迫を心配している人でしょう。

 

 逆に、五輪容認派と言っても、五輪を開催することで利権を確保したいから開催すると固執している人は少数だと思います。やはり、これまでも五輪での選手の活躍を見て、そこに何からの感動を覚え、コロナ禍の開催で人の命を奪うことにならなければ見たいという人が多数でしょう。

 

 中止派の中でも、コンサートや映画もすべて中止しろと考えている人は少数でしょう。だから、中止派も容認派も、気持が通じ合う部分があるはずなのです。わかり合えずはずなのです。

 

 まあ、そうならない根本の原因は、政権の対応が、何が何でも開催というように見えてしまうからです。でも、それに引きずられて、反対勢力も同じように何が何でも中止ということになってしまい、どうやって国民の連帯を保つのかというようになっていかない。

 

 そこに気持が向かう政治勢力って、日本では誕生しないのでしょうかね。では、つくるか。