えらく古い話題を持ち出すことになる。1995年、東京都知事選挙があった。鈴木俊一氏の退任に伴うものだったが、後任として石原信雄氏、岩国哲人氏、上田哲氏などそうそうとした顔ぶれが名乗りを上げるなかで、青島幸男氏が空前の得票で圧勝することになる。

 

 その選挙の最大争点は当時計画されていた都市博を実施するのか中止するのかだった。しかし、すでに工事はだいぶ進んでおり、中止となれば膨大な賠償金も求められるということで、東京都議会は都市博の開催を求める決議を可決したりして、青島都知事に圧力をかける。

 

 青島氏は中止を掲げて当選したのだから、当然、そういう圧力をはねつけ、すぐに中止を表明するのかと思いきや、なかなか結論を出さない。東京都民だった私は、当初は、「公約に忠実でない中途半端なヤツだな」と思っていたのだが、次第に考え方を変えていく。

 

 都議会決議にあるように、賛成するというか、多額の賠償が求められるなら開催やむなしと思う都民も少なくなかったのだ。そこを、迷うことなく中止決断ということになってしまうと、そういう都民の気持ちを逆なですることになる。そこで青島さんは、そういう都民の声も受けて悩んでいる姿を見せることによって、やむを得ざる中止決断に理解を広げようとしたのだと感じたのである。さすがタレントだ。

 

 賛成や反対が求められるものの中には、原理原則的にどちらかに態度を決めなければならない問題があって、そういうものは「即断」してもいいのだ。しかし、世の中にはそうでないあいまいな問題も多いので、世論は揺れ動くことになる。政治というものは、そういう多様な世論から反発されないためには、こんな配慮も必要だということである。

 

 その頃まで、与党である自民党にも、そんな配慮があった。財界の言うがままという本質はあったにせよ、老人医療費の無料化などに代表されるように、社会政策も充実させて世論の支持をつなぎ止めた。

 

 そこに変化があったのが小泉純一郎氏の政治で、人を敵と味方に分け、敵を徹底的にたたくことで支持を集めるという、現在につながる政治のあり方が定着してくる。今回のオリンピックの問題を見ても、開催することに対して菅さんをはじめ政権側に迷いがないように見えるのも、一度決めた道を突き進むのが王道で、別の道に配慮するのは負けという、安倍政権時代の勝利の鉄則から来ていると思われる。

 

 そして、野党の側は、これと正反対に開催反対だけど、迷いがないことでは共通している。ここに分断された政治の現在があるというわけだ。

 

 しかし、そろそろ、世論のいろいろな側面に配慮した政治というものが、昔の自民党政治とは異なるレベルで登場してほしいよね。できれば野党の側からだけど。