まだまだ続くので、ゆっくりと書いていく。この判決に対する私の立場は微妙であるので、まずそのことを書いておこう。

 

 大規模で組織的な人権侵害の被害者が、国家間の条約や交渉による補償に満足しない場合、加害国を直接に訴える裁判を起こすのは当然だと思う。加害国の裁判で敗訴した場合、被害国で裁判を起こすのもありだ。

 

 だからもし、この日本で、1963年にいったんは敗訴したとはいえ、原爆被爆者がアメリカを訴える裁判を起こすというなら、私は全力で支援するだろう。主権免除原則はこの問題では通用しないことを世論に訴えるだろう。

 

 ただし、そのことと、主権免除原則が実際に過去の時代の国際法となっているかどうかは、まったく別の問題である。国際法が国際法として通用するようになるには、それが国家の慣行となり、国家の法的確信になっていることが不可欠であるが、主権免除の排除はそのようなものになっていないからだ。

 

 主権免除は古いことの論証に二つの事件がよく持ち出される。第二次大戦中にドイツ兵がギリシャのディストモ村で行った虐殺事件と、同じく第二次大戦中にドイツで強制労働させられたイタリア人が損害賠償を訴えたフェリーニ事件である。どちらも、ギリシャとイタリアの裁判所は、主権免除を否定して、ドイツに対する賠償を求めた。

 

 しかし、これもよく知られているように、前者は結局、ギリシャの特別最高裁判所が主権免除原則を維持するという判決を下したし、後者もドイツが国際司法裁判所に提訴して勝訴する結果となった。こうして結局、裁判の結果として、ドイツが賠償を払うには至らなかった。つまり先ほど、「国際法が国際法として通用するようになるには、それが国家の慣行となり、国家の法的確信になっていることが不可欠である」と書いたが、ドイツ一国の慣行にも法的確信にもなっていないのが現状である。ましてや国際法であるから、たとえドイツ一国がそう変化したとしても、世界の多くの国々の変化が不可欠である。

 

 もし、日本政府が主権免除を否定して、ソウル地裁の判決を支持するなら、そこにようやく変化が生まれることになる。一国とはいえ主権免除を否定する国があらわれることになるのだから。けれども、日本政府はそんなことを露ほども考えていない。

 

 この現状を変えられるとしたら、日本国民の多数が態度を変更し、日本政府に圧力をかけるようになることしかない。ソウルの裁判を担った人は、そこに希望をもっているのかもしれない。ただ、日本国民は政府の判断を強く肯定しているように見える 。

 

 日本国民が態度を変えることがあるとしたら、やはり先ほどの原爆裁判のことに行き着く。もしこの時代に改めてアメリカの国際法違反を訴える裁判が開始され、国民の多数が「大規模で組織的な人権侵害には主権免除は通用しない」と気持を一つにして闘うことができるなら、日本が犯した「大規模で組織的な人権侵害」も同じことだと気づくことになるだろう。そうであっても、慰安婦問題というのは、原爆被害よりなお乗り越えるべきハードルは高いと思うのだが。(続)