誰もが理想は持っていると思う。だが、なかなか実現しないのが世の定めである。

 

 ところで、理想というのは、それを信じている人にとっては、尊くかけがえのないものだが、世の中には、それとは真逆の理想を持つ人もいる。そういう人にとって、別の人の理想は、理想ではなく極論ということになる。

 

 たとえば、安全保障に関して言うと、ある種の人々の理想は軍隊の廃止、自衛隊の廃止である。軍隊、自衛隊の存在こそが平和の障害であって、なんでそんな簡単なことが分からないのかという立場であろう。

 

 一方、別の種類の人々の理想は、平和を乱す世界の国々をアメリカとともに軍事力でねじ伏せることである。その理想の実現のためには、集団的自衛権の全面行使もいとわない。

 

 この二種類の立場の人々が相手を見ると、それは理想ではなく極論となる。ばかげたもので、相手にすることすら汚らわしいという感じだろうか。

 

 お互いの理想は理想として、実際の世の中で平穏に暮らしていこうとすれば、そのような理想は脇において、常識的な落とし所でやっていくしかない。共産党が野党連合政権では自衛隊廃止という理想(極論)を留保し、安保も自衛隊も容認するというのは、常識の発揮ということになる。ただ、ここでも集団的自衛権は連合政権では容認しないということなので、別の種類の極論(理想)は排除し、まさに左右の極論を排した常識を打ち立てようとしているわけである。

 

 まあ、共産党の基本的な立場としては、安保も自衛隊も平和の障害だという立場は変えないということなので、そこでは常識から外れるのだけれど、連合政権の立場とはいえ常識でやっていくことが繰り返されるわけだ。そうやって、時間が経つうちに、次第にそこにも変化が生まれてくるかもしれない。

 

 市民運動が理想を掲げるのは当然である。妥協を許さない立場もあり得るだろう。

 

 しかし、政党は、右も左も真ん中も含め、国民多数の支持をえて政権をめざすものだから、理想を捨てないことと、常識の線でやっていくことと、その両立なしには生きていけない。自民党はそこが得意だったんだよね。これまでは、

 

 いま、いい体験をさせてもらっているよね。共産党は。