来年の仕事ではこれが最大の課題だ。不破哲三さんの『資本論』解釈批判の本を出すのである。

 

 来年夏、新日本出版社が刊行している新版『資本論』(全12分冊)が完成する。それを見届けた上で、本格的な批判本を出す予定である。何冊になるかは、まだ未定。

 

 不破さんはこの十数年ほど、ほとんどの時間を『資本論』研究に費やしてきた。政治への関心は薄れたのかと思わせるほどの仕事ぶりであった。そして、これまで誰も成し遂げなかったような新しい解釈を成し遂げ、その到達点をもって『資本論』の翻訳まで新しいものにしようとしているのである。それが新版『資本論』だ。宣伝用のチラシでは、以下のような特徴を持つとされる。

 

 「マルクス自身の研究の発展史を余すところなく反映。エンゲルス版の編集上の問題点を解明。画期的内容で初めての新編集版!」

 

 マルクスによる研究の発展史というのは大事な視点だ。しかし、その発展史をエンゲルスが理解しておらず、その後につづく世界中のどのマルクス研究者も百数十年にわたって理解することなく、いまになってようやく不破さんが自分で発見したので、それに沿って新しい翻訳版を出すというのだから、ちょっと想像できないほど気宇壮大な試みである。

 

 この日本でも、何十年もマルクスと『資本論」に命をかけて研究してきた学者が何十人もいて、その到達点をふまえ、同じ新日本出版社から20数年前、『資本論』を刊行した(これはもう旧版ということになるのかな)。そういう人の研究成果も間違いだと言われているようなものだ。

 

 不破さんは、このお仕事に取り組んでこられた間、「赤旗」や『前衛』、『経済』などでそのエッセンスを述べてきた。そういう政党内メディアにおける発表で済んでいる間は、それら学者研究者は、「あの考え方は政治の世界のこと。学問とは関係ないから、とくに意見は述べない」という態度を貫いてきたように思う。だけれど、それが『資本論』全訳という形をとり、百数十年にわたる研究成果を否定する中身で出されるのだから、もう政治の世界には止まるものではない。学問の世界にやってきたのである。

 

 そして、学問の世界とは、政治の世界とは違って、批判を許さないという「忖度」は通用しない。百数十年の研究成果を否定するなら、その成果がどう間違っているかを具体的に論証する必要があるし、それができないなら学問的な批判にさらされる世界である。

 

 ま、ということで、その種の本を出すのである。でも、学問というのは、そうやって公開の場での批判を反批判を通じて発展するのであって、そこをめざそうとすれば避けられないことではある。

 

 新版『資本論』にしても、現在、公になっている批判は、革マル派が機関誌『新世紀』で、不破さんの「恐慌の運動論」は「資本主義の永続的発展を説く犯罪的なもの」と主張しているが、そんな政治的批判だけである。批判をそんな程度にとどめていては、あまりにも失礼でしょう。せっかく不破さんが学問の世界に参入しているのだから、これを学問的な批判に昇華しないといけないのだ。

 

 これが成功すれば、『資本論』をめぐる理論的な発展が成し遂げられるかもしれない。周りが忖度して、その種の批判を政党内では知らせなかったりすると、せっかくの不破さんの努力も政党内に止まって、社会を変革する力にはつながっていかない。不破さんもきっと、公然とした批判を反批判を通じて、この分野で理論的な発展が達成されることを心から期待しているはずだ。

 

 本日は先ほどまで、4年がかりでやっている歴史学研究のためのズーム会議で、いまから上京。本日と明日、東京で著者とお会いするのまでが、年内の仕事だ。