政府が学術会議の人事に介入した動機が、3年前に学術会議が出した軍事研究を拒否する声明にあったことが、次第に明らかになっている。政府として軍事研究推進の立場でやってきて、防衛省の制度に大学が応募できる仕組みもつくったのに、学術会議の声明をきっかけに、それに応じる大学が激減したものだから、その巻き返しをねらったのだろう。人事をきっかけにして、学術会議のあり方に踏み込んでいるのも、軍事研究問題で学術会議の態度を変えることに最終的な目的があるのだと感じる。

 

 しかし、まず、そのやり方がおかしい。政府が大学にも軍事研究に応じてほしいと考えるなら、その理由やねらいを明らかにし、国民の理解を得るようにすべきだ。それなのに政府はそんなことをしないまま、人事を通じて学術会議を萎縮させることで、その目的を達成しようとしている。学問にかかわることだから、理論的に解決しなければならないのに、ウラで手を回す卑劣なやり方である。

 

 そんなやり方をしているから、学術会議が声明を採択するに際して、必ずしもその声明に賛成していなかった大西隆議長(当時)まで、今回の人事問題では政府に反対する側に回っている。卑劣なやり方は、政府の目的達成を妨げることになるのではないか。

 

 しかも、3年前の声明は、いまの学会の到達をふまえた穏当なものだと感じる。いろんな意味で。

 

 まず、声明は、過去に学術会議が「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明(1950年)、また 1967 年には「軍事目的のための科学研究を行わない声明」(967年)を発したことを明記し、「上記2つの声明を継承する」としている。この点では、過去と変わらない立場を明確にしたようである。

 

 しかし、今回の声明それ自体のなかには、「軍事研究反対」という明文は存在しない。その代わりに存在するのは、次のような立場である。

 

 「防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」(2015 年度発足)では、将来の装備開発につなげるという明確な目的に沿って公募・審査が行われ、外部の専門家でなく同庁内部の職員が研究中の進捗管理を行うなど、政府による研究への介入が著しく、問題が多い」

 「大学等の各研究機関は、施設・情報・知的財産等の管理責任を有し、国内外に開かれた自由な研究・教育環境を維持する責任を負うことから、軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究について、その適切性を目的、方法、応用の妥当性の観点から技術的・倫理的に審査する制度を設けるべきである」

 

 そう、「問題が多い」のだけれど、やめろとは言っていない。問題があるなら、その問題を克服できればいいとも読み取れる。

 

 実際、そのための手段も提示している。「その適切性を目的、方法、応用の妥当性の観点から技術的・倫理的に審査する制度を設けるべきである」ということだ。だから、大学で審査制度をつくり、そこで審査してパスすれば応募できる道を残しているのである。

 

 ただ、そのハードルが高いから、大学は及び腰になっているのが現実である。けれども、日本の戦争の過去を考えれば、この程度のハードルを越えることは不可欠であると思う。それなのに政府は、ハードルを越えるために言論を用いるのではなく、人事で萎縮させて乗り越えようとしている。これって、結局、目的達成のためには有害でしかない。軍事研究の必要性を言論で示せないとすれば、政府は負けたも同然である。