『資本論』などのマルクスの著作を読んでいると、「生産力」と「生産諸力」という言葉が何回も出てくる。マルクス主義というか史的唯物論の基本概念なので当然だけれども。

 

 ただ、いつも感じていたのは、「生産力」と「生産諸力」って、言語が単数形と複数形になっているからそうなるのだろうが、どこに意味の違いがあるのか分からないなということだった。分からないまま、まあたいしたことないだろうと、読み飛ばしていたのが現実である。

 

 ところが、この間、ある方の著作を刊行するために原稿をやり取りしていて、そんなことではいけないと教えられた。頭を殴られたような衝撃である。

 

 そもそも、日本で初期に『資本論』を訳した河上肇が、「生産力」と「生産諸力」では大きな意味の違いがあることを指摘し、文脈に応じて、この二つとは異なる訳をすることの必要性を説いていたという。それ以外にも、ドイツ語、フランス語、英語で『資本論』に接した多くの研究者が、単数と複数では意味の異なる場合があることを論じている。

 

 生産力が発展し、それが現状の生産関係との矛盾を生み出すことによって、次の社会が準備されるというのが、マルクス主義の基本命題である。この命題があるが故に、社会主義を準備するためには、資本主義の生産力が今よりもっと発展しないといけないということになり、社会主義をめざす運動に制約を加えてきたと思う。もっと生産力を発展させないと、万人に平等に幸福をもたらす社会ができないということになると、まずはもっと経済成長をということになってしまうからである。

 

 いや、経済成長それ自体は大事かもしれない。しかし、成長しないとポスト資本主義は見通せないということになると、いつまで経っても資本主義の枠から抜けられないからだ。

 

 生産力という言葉は、日本語そのままで読むと、成長神話につながるような「量」を示す概念である。しかし、それを「生産力」と訳さないで、「質」をも含む別の用語に訳し変えることができるなら、ポスト資本主義の新しい社会の概念もずいぶん変わってくるのではないか。運動のあり方も変わってくるだろう。

 

 そんな期待を持ちながら、その著者と原稿のやり取りをしている。刊行は来春でしょうか。