学生──知的にめざめる階層

 

 学生は「学びたい」という強烈な要求をもっている点で他の階層の青年と共通している。同時にこの点からみた学生の重要な特徴は、単に知識を吸収するだけに満足せず、これまで学んだ知識を土台にして大学での勉学をつうじて自然と社会の諸事象の本質を把握することに進む傾向性にある。言い換えればまさに知的にめざめる過程にいるということである。

 

 現代の学生は、自民党政府の反動的文教政策のもとで、一定の有益な知識を高校までの教育で得ているが、それは細分化された非体系的な性格が強く、大学入学直後の六二%もの学生が、基礎的知識すら「不足している」と訴えている(日教組調査)ほどである。それだけに学生は、大学で高校までの教育、勉学とはちがって系統的な知識を身につけ、自主的な勉学と専門的な研究で、事物の本質をより深くつかみとりたいとの要求をつよめ、それを期待して大学に入学してくるのである。従って、大学がこの期待に応えていないと感じた時、授業への意欲を喪失していく。

 

 一方、日本の政治、経済、文化・道徳にわたる深刻な危機のもとで、みずからの学業で身につけた知識や能力をどう役立て、どういう人生の設計と結びつけるのかという問題への学生の関心が高まっている。だが、こうした危機の克服の展望を見出せない場合、学生はみずからの学問の有効性に懐疑的になったり、学問自体を現実の諸問題とは遊離したものと捉える傾向が強まる。さらに、資本主義社会においても立身出世へのいくばくかの可能性をもった階層であることからも、学生の知的めざめが現体制の肯定に結びつく傾向のあることも疑えないところである。

 

 知的めざめを社会シンポに結びつけるうえでの、こうした困難な条件にもかかわらず、学生のあいだには、「学んだこ とを社会に役立てたい」「成長したい」「有意義な人生を準備したい」という要求が根強くあり、ここに問題の正しい解決を可能にする有力な条件がある。「学生は現在とともに未来に生きる青年である。そして学問を学び真理を探求し、専門的知識、技術を身につけ、それを自己の生き方や社会の発展に役立てたいという願いは、全ての学生の基本的要求である」(全学連第二十七回大会決定)

 

 こうした見地から見て、まず注目すべきことは、現代における自然と社会の諸科学の多面的発展それ自体が、学生の知的めざめを社会進歩に結びつける条件を生み出しているということである。

 

 人類の社会的活動を基礎として人間の実践と思考によってさまざまな諸問題を解決してきた科学は、ここ数世紀の間にかつてない規模と速度で前進を遂げ、自然と社会のあらゆる領域にわけ入り、人類社会発展のますます重要な要因となってきた。そして、科学は、人類の幸福を真に保障する社会の発展方向を解明できるところまで到達している。とりわけ、現在においては、政治、経済、文化・道徳の全分野にわたる社会的危機からの脱出の方向が、経済民主主義の実現、市民的自由と民主主義の擁護・発展、軍事同盟からの脱出と非同盟中立という社会進歩の方向にしか見出し得ないという今日の日本の現実こそが、さまざまな分野の学問にその存在側値を問いかける根源的な問題を提起している。この掲合、社会進歩の方向とは、科学的社会主義の道だけをいうわけではない。真理から意識的に目を背けることのないすべての学問について考えられる。従来、相容れない学問体系とみなされていたマルクス経済学と近代経済学のあいだにも、日本共産党の工藤晃経済政策委員長と内田忠夫東大教授との対談で、日本経済の危機の打開の方向について、少なくない見解の差異を残しつつも、国民本位の不況克服の政策など重要な点での意見の一致が確認されているのである。

 

 さらに、重要な政治的、社会的問題となっていた公害問題で、熊本大学の水俣局研究班が、病因の探究の過程において個々の教員、研究者の政治的立場をこえて、科学の立場からチッソ資本を告発し、結果的に革新勢力のめざす公害規制の闘争に貢献したととは記憶に新しい。これらのことは社会的な真理をあくまで探究しようとするならば、国民の苦しみや日本社会の危機を生み出している原因の解明とその克服の万途の把握をつうじて社会進歩の方向に進む大きな可能性を示している。

 

 それを可能にするものとして、社会の進歩に逆行する反動勢力の側は、現実の社会の矛盾を直視せず、その法則的な解決の方向を見出し得ないが、進歩の側は現状を変革するために真実を徹底的に追究し、そこにある新しい現象を発展的見地からとらえるという一般的な傾向が強く働いている。また、科学的社会主義の党が国民的合意を可能にする社会進歩の具体的方針をかかげ、現実政治をゆり動かす規模の活動を進めているという状況がある。

 

 私たちはこうして、「学んだことを自己の幸福な人生とともに社会に役立てたい」という大多数の学生の共通する志向にもとづいて学んでいくならば、日本社会の危機からの脱出の方向を真剣に考えている学生の知的めざめが社会進歩の方向に結びつく大きな可能性のあることを見る乙とができる。

 

 しかし一方で、学生の知的めざめを退歩や反動に結びつけようとする様々な攻撃があることはいささかも軽視できない。

 

 発達した日本のマスコミを利用して、独占資本は「国民の九割は中産階級化した」「資本家と労働者の対立という一般的図式の時代は過ぎ去った」など、その程度や色合いに違いはあれ、本質的には資本主義を美化、擁護するイデオロギー攻撃をかけている。このイデオロギー攻撃に屈服した学生は知識をもっぱら「エリートコース」の利己的排他的追求の手段と見なしていく。また、日本にはアメリカ的な文化の退廃も広範にもち込まれ文化・道徳の危機が深まり、それが学生の知的めざめの過程をそこない、社会進歩への希望を腐蝕している。知的めざめにふみ込んだ世代ではあるが、まだ科学的なものの見方や社会的な経験が十分でない学生は、こうした思想を敏感に反映し、きわめて有害な作用をうける。

 さらに、現在学園においてトロツキズムは衰退しつつあるが、学園暴力の根が広く残っており、最近では「勝共連合」が学生対策に力を入れ、かなりの資金も投入して支離滅裂な反共「理論」を深遠めかした論法でふりまいて、知的めざめの過程にある学生を獲得しようとしている。

 こうして、深刻化する危織のもとで将来への不安を感じ自己の生き方を真剣に考えてはいるものの、批判的・科学的なものの見方が十分に養われていない若い精神の知的めざめが、退歩と反動、蒙昧に結びつく危険もあるのである。先きに、学生の知的めざめが社会進歩に結びつく可能性があることを述ベたが、それ単純な過程でなく粘り強い真理探求の活動と闘争を必要とする複雑な困難にみちた過程である。

 

 カール・マルクスは、まだ革命的民主主義者でも、ましてや共産主義者でもなかった十七歳の時、「職業選択にあたっての一青年の考察」という文章で次のように書いた。

 

 「しかし、地位を選ぶにあたってわれわれをみちびかなければならない主要な指針は、人類の幸福ということと、われわれ自身の完成ということである。そしてこの二つは、その利害が相反して、敵対しあい、ついには一方が他方をほろぼすはずのものだ、というふうに考えてはならない。人間は、自分と同時代の人びとを向上させるために、また彼らの幸福のために働くことによってはじめて、自己の完成を達成することができる──こういうふうに人間の本性はできているものだ」

 

 マルクスはエンゲルスとともにとの人生の出発点を貫き、人類の知識の価値あるものを集大成しそれを労働者階級の闘争と結びつけ、はじめて人類解放の科学的展望をしめした。知的めざめを社会進歩の事業に結びつけていった人間マルクスの姿は、今日も不滅の先を放っている。(続、「赤旗」評論特集版1977.12.5)