この新しい本の書き方がどんなものになるか理解していただくため、あと2回分だけ紹介しておきます。本日は地位協定の前文、明日は第一条ですが、その途中まで。あとはブログには発表しませんので、本が出るまでお待ちください。

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前文——言葉の飾りを排して

 

(地位協定前文)

 日本国及びアメリカ合衆国は、千九百六十年一月十九日にワシントンで署名された日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条の規定に従い、次に掲げる条項によりこの協定を締結した。

 

(行政協定前文)

 日本国及びアメリカ合衆国は、千九百五十一年九月八日に、日本国内及びその附近における合衆国の陸軍、空軍及び海軍の配備に関する規定を有する安全保障条約に署名したので、

 また、同条約第三条は、合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する条件は両政府間の行政協定で決定すると述べているので、

 また、日本国及びアメリカ合衆国は、安全保障条約に基く各自の義務を具体化し、且つ、両国民間の相互の利益及び敬意の緊密なきずなを強化する実際的な行政取極を締結することを希望するので、

 よつて、日本国政府及びアメリカ合衆国政府は、次に掲げる条項によりこの協定を締結した。

 

 行政協定改定交渉に当たり日本政府が問題点を検討した「行政協定改定問題点」(59.3.20作成)の中には、前文の問題点への言及がありません。条約の前文には、続く条項を解釈する上での指針となるような考え方が置かれることもあるのですが、行政協定の前文はその種のものではなかったので、日本政府も改定すべき問題を感じなかったというところでしょう。実際、戦後政治の中で、行政協定や地位協定の前文の中身やその解釈が、日米間で議論になるようなことはありませんでした。

 

 ただ、こうやって両者を並べて見ると、地位協定の前文はそっけないのに、行政協定のほうは両国の「義務」や「きずな」をやけに強調していることが目に付きます。これは、行政協定下の日本では、実際には「義務」や「きずな」が軽視されていたので、言葉で飾ることでごまかしたことのあらわれだと言っても言い過ぎにはならないでしょう。

 

 日本は一九五二年に独立し、主権国家として安保条約を結んだはずなのに、その条約ではアメリカが日本を防衛する「義務」は明確にされませんでした。行政協定が合意された時点においては、駐留する米軍が犯罪を犯した場合、その裁判はすべてアメリカが行い、どんな種類のものであっても日本側は関与できないという規定が残されており、「きずな」どころではありませんでした。それでも米軍の駐留を日本国民に納得させるためには、屈辱的な実態を空疎な言葉で覆い隠すしかなかったというのが、一九六〇年までの日本だったということです。

 

 ただ、行政協定の前文の規定そのものが、日本国民に厄災をもたらしたわけではありません。また、新しい地位協定の前文が簡素なものとなったのは、もしかしたら言葉で飾る必要のないほど中身に変化があったからかもしれません。そこで早速、具体的な条項の話に入っていきましょう。