お手紙をやりとりしただけで、お会いすることはなかった。けれども、横田さんの誠実なお人柄がなければ、拉致問題がこれだけ国民的な運動にならなかっただろうし、「余人に代えがたい」とはまさにこういう人のことを指すと感じる。

 

 私が何回かお手紙を出したのは、もちろん拉致問題で本を書いていただきたかったからだ。最後に出した手紙では、お孫さんに会うために、北朝鮮にいっしょに行かないかと持ちかけた。その気持ちはあるのだけれど、拉致問題全般を考慮しなければならない家族会代表の立場にあるものとして、個人の気持は優先できないのだと、苦渋に満ちたお返事があった。これ以上苦しませてはダメだと思い、お会いすることも断念した。

 

 横田さんにお手紙を出せるようになったのは、横田さんを励ます運動体の中に、全労連系の活動家がおられて、その仲介があったからである。拉致問題は、1988年、共産党の橋本敦参議院議員が追及し、梶山国家公安委員長が「北朝鮮による疑いが濃厚」と初めて答弁するなど、共産党が中心的な役割を果たしてきた。

 

 しかし、私が共産党政策委員会に在籍していた2000年10月、国会で不破さんと森首相の党首討論があって、びっくりすることになる。拉致問題をテーマにするなら当然、事前に政策委員会に相談があるものだが、開始された討論のテーマが拉致問題だったのである。「ああ、政策委員会は信頼されていないのだな」とがっかりしながら聞いていたら、さらにびっくりしたのは、拉致問題を「疑惑」段階にあると断定したことであった。

 

 確かに、犯罪というものはすべて、裁判で確定判決が出ない限り、「疑惑」と言えば疑惑である。しかし、1980年の原敕晁(ただあき)氏の拉致については、韓国で捕まった実行犯の辛光洙(シン・ガンス)が事実を認めて死刑判決が確定していた(85年)。だから、拉致問題は、少なくとも一部はもはや「疑惑」というものではなかったのである。

 

 いずれにせよ、そういうこともあって、共産党は拉致問題の中心から退き、どちらかといえば疎まれるような存在になる。けれども、横田さんの近くに立派な活動家がいて、支えていたおかげもあったのか、それこそ横田さんご自身のお人柄か、党派で差別するようなことはなく、拉致問題の運動が国民的な広がりを持つことになったと思う。

 

 だからこそ、弊社のような出版社から本を出してもらうことによって、その広がりを確固としたものにしたかったのだ。その願いは叶わなかったけれど、横田さんの功績は変わらない。

 

 できることなら、お孫さんが日本にやってきて、横田さんのお墓参りを静かな環境でできるような状態になってほしい。心からご冥福をお祈りします。