この本は、全編が共産党論でもある。平田さんは、大学に入る前から共産党員になろうと決めており、実際に一年生で入党し、全国的な政治闘争の焦点となった東大闘争に関わったことから、いろいろな共産党幹部の指導を受けることになる。当時の最高幹部だった宮本顕治書記長も含めてだ。

 

 宮本さんが東大闘争の際、本郷近くの二木旅館に陣取って、直接指導に当たったという話は、76年頃からその二木旅館を使うようになった私の耳にも、当時の共産党指導者から入ってくることになる。平田さんが、当時の宮本さんの東大闘争に関する分析と指導を、いまでも敬意を持って受け止めていることも、この本で伝わってくる。それだけに、70年代初頭の新日和見主義の問題での宮本さんの指導とは何だったのかという混迷、怒りも強く伝わってくるのだけれど。

 

 東大闘争時の宮本さんの指導は、私の時代では「逸話」に属するものだったけれど、自分自身の体験として肌で「すごい」と感じたのは、核兵器廃絶の問題である。アメリカのレーガン大統領が「核兵器のない世界」を口にした一瞬があったのを捉え、レーガン並びにソ連の最高指導者であったアンドロポフに書簡を送って核廃絶での協調を呼びかけ、ソ連共産党との間で核廃絶をめざす共同声明をまとめあげていった。当時のソ連にとって(アメリカもだが)核廃絶は「夢想」のような位置づけだったので、それを現実の政治課題としていく姿を見て、指導者の役割はこんなところにあるのだと実感することになったのだ。当時、私は民青同盟で国際部長の仕事をしており、世界のほかの青年同盟もそれに大きな影響を受けるのを目の当たりにしてきた。「反核青年連合」という世界規模の統一戦線の動きも生まれた。

 

 しかし、その数年後、ソ連の指導者がゴルバチョフになり、最初は日本共産党とも協調関係にあったのに、「新しい政治思考」を打ち出す時代になってくると、関係がまずくなる。それは全然構わないのだが、「新しい政治思考」を批判するということが、すべての判断の基準とされるようになってきて、私にも影響が及んでくる。当時、世界青年学生祭典が定期的に開かれていて、その国内準備委員会は総評青年部、社会主義青年同盟(社青同)と全学連、民青同盟などで共闘する関係にあり、私は民青同盟の代表として話し合いを進めていた。しかし、なかなか話し合いがうまくいかない。そうすると突然、宮本さんから、それががうまくいかないのは社会主義青年同盟が「新しい政治思考」に犯されているからだという指導があり、それを批判する論文を「赤旗」に民青同盟の名前で出すことを求められるのである。そのせいで、せっかく築いた社会主義青年同盟との関係が崩壊していくのを、悔しい思いで体験することになった。

 

 洞察力がすごすぎて、現実にあり得ないことまで洞察してしまうという感じである。なお、その後、統一した準備委員会が発足して私は安心して卒業したのだが、さらにその後、宮本さんが準備委員会に全日本農民組合が入っていることが問題だと指摘して蒸し返しが起こり、結局、統一は崩壊することになる。

 

 平田さんは、花伝社を立ち上げる際に共産党を離党したのだが、その際、離党後に共産党に対する憎悪をむき出しにするような人を見てきたので、そういう人物にはならないでおこうと決めたそうだ。本を読めば分かるが、平田さんはいまなお、共産党への敬意を失っていない。

 

 平田さんは、結論として、常識的なことを導き出している。共産党員といえども、共産党幹部といえども、普通の人間だということである。立派なだけの人はおらず、間違いも犯すし、好色な人間もいる。共産党幹部は正しいとか、共産党員だから立派だとか、そんな思い込みをもってはならないということだ。そこは私も同じ感想を持つ。(続)