この本が一つの側面として持っているのは、いうまでもなく学生運動論である。学生運動が下火になって久しいが、東大闘争を頂点とする大学紛争が何を求め、どういう経過で推移し、そこにはどんな意味があったのかが、著者らしい冷静な筆致で描かれている。

 

 この本にも書かれているが、大学紛争を通して、共産党と民青同盟は飛躍的に大きくなった。民青が1000人いるという大学が10近くにものぼったことからも、それは間違いない。

 

 私などは、そうやってできあがった体制に入学したものだから、ついつい60年代はずっと共産党が強かったのかと思うが、そうではないのだね。平田さんが入学した時代、東大の共産党員は10名程度だったそうだ。

 

 だから、何かをやろうとしても、共産党があることを決めて学生に賛成するよう呼びかけるというような風習は、欠片もない。いろんな立場の学生とつきあい、腹を割って話し合い、お互いが動揺をくり返すようなことがあっても、何とか協力し合って進んでいく姿が克明に描かれていて、とても興味深い。

 

 本来、構成員全員を対象にして運動するというのは、そういうことだろう。自治会の執行部だって、共産党員もいれば創価学会員もいれば保守派もいるようなことが理想で、そこでどう話し合い、どう一致点を見つけていくかに長けないと、運動が広がることはないと思う。

 

 だけど、私が大学に入った頃は、もうそういう時代ではなかった。だって、学生総数の1割ぐらいの民青同盟員がい、そのまわりにシンパも多数いて、それに大学紛争で凋落が決定的になった少数の新左翼が対峙しているという構図が固定化していたので、好き勝手に方針を決めてぐいぐい押していくということで誰も不自然に思っていなかったのだ。

 

 まあ、ぜいたくな時代だったよね。でも、だからこそ、意識的に立場の違う人びとと対話し、協力をしていく努力をすることが大事だったと感じる。現在は、もうそういう時代ではない。政治の分野でも共闘抜きに政治が変えられることはないというのが、共通の認識になっている。だからこそ、この本にあるように、少数でしかない勢力がどうやって影響力を広げていったかの記録を読むことは、とても大事だと思うのである。

 

 のちに東大総長になった佐々木毅さんをはじめ、官僚になった人、財界の大物になった人など、いろんな人が登場し、現在に至るも平田さんとの交流が続いている。そういう関係が築けないと、とても野党共闘も含む運動なんてできないだろうなと感じた。(続)