(内田樹先生編のアンソロジー、『街場の日韓論』が晶文社から刊行されました。わたしも一文を書かせていただいております。そうそうたるメンバーで、自分の名前が並んでいるのが恥ずかしくなります。奥付は4月25日になっていますが、現在、大型・中型の書店はほとんどが閉店で、実際に本屋にならぶのがいつかは、まだ見通せないそうです。その影響は弊社にも深刻に及んでいます。出版社はどうなっていくのでしょうか。)

 

四、損害や苦痛を与えたという認識と違法認識は別物だ

 

 それにしても、欧米日諸国は、なぜ、これほどかたくなに過去の植民地支配の違法性を認めないのでしょうか。どうすればそれを認めさせることができるのでしょうか。

 

 植民地支配の中でどんなひどいことをやったのか、あまり国民に知らされていないので、世論が高まらないからだという人がいます。日本に即して考えても、朝鮮半島を支配していた三五年間、日本は慰安婦や徴用工に対する仕打ちはもちろん、創氏改名や土地の没収、独立運動への弾圧をはじめ数々の非人道的な行いをしたのであって、それを暴き立てて国民世論を高め、政府に迫ればいいのだということです。

 

 もちろん、これらのことがあまり知られていないことは事実であり、それを正確に知らせることは大事です。違法性を認識する上で基礎となるとは思います。

 

 しかし、先ほどのダーバン会議のことを振り返ってみてください。奴隷制の問題と植民地支配の問題では扱いが異なっていました。植民地支配の結果として奴隷制が生まれたのですから、奴隷制を「人道に対する罪」とみなせるなら、植民地支配もそうなりそうなものなのに、結論は違っていました。

 

 ここには、合法と違法を分ける基準について、現在の国際法の到達点が反映しています。普通、「犯罪」と聞いてわれわれが思い浮かべるのは、人を殺したり傷つけたりするような行為です。人を奴隷にする行為というのは(つまり人を売買し、買った人を拘束し、他の人と同じ権利を与えず、意に反して強制労働させるのは)、まさに犯罪の典型としてイメージすることが可能です。実際、イギリスやオランダ、ドイツなどは、植民地支配を違法だと認めたことはありませんが、その過程で引き起こされた人道上の犯罪については謝罪し、補償したことがあります。

 

 一方、ある地域を植民地にする行為というのは、誤解を怖れずにいえば、それだけでは誰も傷つけることはありません。もちろん、その過程で、殺戮や強奪が行われれば、その行為を「犯罪」とすることは可能であり、だからこそ奴隷制も「犯罪」とみなされているわけですが、植民地支配そのものはあくまで国家の政策であり、刑法の処罰対象となるようなものではないと捉えられてきたのです。

 

 正義の観念からはあり得ないことで、植民地支配を赦せない人々にとっては目を背けたいことでしょう。しかし、現実はそうなっているのです。イギリス帝国史が専門で植民地問題に詳しい前川一郎氏(立命館大学教授)も、「植民地支配の不法性を法理論ベースに求め、旧宗主国の法的責任を追及する基盤はまだないのです」と述べています(「しんぶん赤旗」二〇年一月二八日)。

 

 しかも、植民地支配をした時点では合法だと考えられていた行為を、何十年、何百年を経たあとで違法だと転換できるのかという問題もあります。それは、近代法の基本原則である不遡及の考え方(罪刑法定主義)と真っ向から対立することになるからです。日本国憲法も、「何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない」(第三九条前段)と規定しています。

 

 韓国憲法も罪刑法定主義を謳っていますが、戦後の民主化運動を弾圧した行為、植民地支配時代に日本に加担した行為は例外扱いになっています。それを例外にすることは、韓国の国内なら国家主権の範囲内だとみなせないこともありませんが、他国にまで適用しようとすると、現在のような問題を引き起こすわけです。

 

 このカベを乗り越えようとすれば、当時、欧米諸国が植民地支配は合法だという国際法をつくったこと自体を否定する論理が必要となります。その上で、その論理を欧米日が受け入れることが不可欠です。

 

 罪刑法定主義は原則であって、例外はあります。日本を侵略の罪で裁いた東京裁判はその典型でしょう。けれども、そういう例外を平時に、しかも欧米日全体に認めさせようとすれば、カベは果てしなく高いものになります。旧植民地諸国の大同団結と、それを支持する市民運動の発展とが不可欠となります。その上で、罪刑法定主義の例外として、恩赦とか事後法で罪を軽くする場合があるように、欧米日に対する「温情」も求められるのかもしれません。かつての植民地支配を、いわゆる刑法上の犯罪と位置づけるのではなく、賠償の不要な政治的な誤りとして認めさせることなども検討されるべきでしょう。(続)