ILOに関する概説書として20世紀を通じて親しまれたのが、1962年刊行の『ILO 国際労働機関』という本である。その著者の一人である労働省(当時)の審議官で、ILO総会の日本政府代表を務めたこともある飼手真吾氏は次のように述べている。

 

 「(ベルサイユ)平和会議に臨んだ列国の政治家をして、平和条約において労働問題につきなんらかの措置を講ぜざるをえないと考えせしめるに至った決定的要因は、ロシア革命とその影響であった」(日本労働協会『ILO 国際労働機関』改訂版、一九六二年)

 

 飼手氏は、この著作で以上のことを書いた際、ILOの第四代事務局長であったエドワード・J・フィーランのILO創設三〇周年記念論文を引用している。その記念論文は以下のようなものであった。

 

 「ロシアのボルシェヴィキ革命に引続いて、ハンガリーではベラ・クンの支配が起った。イギリスでは職工代表運動が多数の有力な労働組合の団結に穴をあけその合法的な幹部達の権威を覆えした。フランスとイタリーの労働組合運動は益々過激に走る兆候を示した。……

 平和条約の中で労働問題に顕著な地位を与えようという決定は、本質的にいえば、この緊急情勢の反映であった。平和会議は、条約前文の抽象論や、提議された機構の細目等については余り懸念することなしに労働委員会の提案を受諾したのである。こういう事情でなかったならば、おそらくは、機構の細目における比較的大胆な革新──例えば、国際労働会議において非政府代表者にも政府代表者と同等の投票権や資格を与えるという条項の如き──は、受諾し難いものと考えられたであろう」(「ILOの平和への貢献」(『ILO時報』五〇年一月号 原典はINTERNATIONAL LABOUR REVIEW,Jun.1949)

 

 ILOの当事者自身が、ILOの創設はロシア革命の影響だと述べているわけだ。それがなければ、労働者代表にも投票権を与えるような大胆な革新はなかっただろうと認めているわけだ。

 

 これは当時の情勢を見るとよく理解できる。1917年10月に革命を成功させたロシア新政権はただちに、一日の労働時間を8時間とする布告を発表した。この中で、「労働時間は『一昼夜に8時間および一週に48時間を超えてはならない』ことが確定された。……同布告によって休息および食事のために労働日の義務的な中断が定められ、休日と祭日が決定され、時間外労働の使用は厳格な枠によって制限された。女子および未成年者の労働に対しては特別な保護が規定され」(『ソヴィエト労働法 上巻』厳松堂書店)たという。

 

 その半世紀前から、各国の労働者は一日8時間労働を求めてきた。それに対して各国の資本はそれに耳を傾けず、労働者を酷使してきた。政府も労働者に手を差し伸べなかった。ところが、社会主義を掲げて誕生したロシアで、一挙に8時間労働が実現してしまう。

 

 各国政府の驚きはいかばかりだっただろうか。当時、各国にも強力な労働運動が存在し、共産党を名乗る党もあった。そういう勢力が、ロシア革命の成功を受けて8時間労働が夢物語ではなくリアルなものであることを実感し、フィーランが書いているように各国で革命をめざした運動を活発化させるのである。それが国民の支持を受けていた。

 

 みずから8時間労働を採用することを宣言しないと革命が起きてしまうかもしれない──。そういう恐怖感の中で、ロシアに続いて17年中にフィンランドが、翌18年にはドイツなど5か国が、19年にはフランスなど8か国が8時間労働制に踏み切ったとされる。ILOの8時間労働条約も、そのような動きの中でのできごとであった。

 

 ここには、資本の横暴がどのような場合に抑えられるのかということについて、生きた事例が存在しているように思える。いまの世界に求められているのも、資本の横暴を許したままにしていては、国民の暮らしが脅かされるに止まらず、資本が存立している社会、地球さえ脅かされるということへの自覚である。もし、資本がそれに無自覚なままで居続けるなら、二度目のロシア革命が現代において再現される必要があるのだ。(続)