産経新聞デジタルiRONNAの「『社会主義ノスタルジー』で変貌する世界」に寄稿しました。そちらではタイトルが異なっていますが(内容を改変しない範囲で用字用語も変わっていると思います)、元のままで5回連載します。

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 大学生になってまもなく、1974年にコミュニストになった。当時の大学というのは、生協の建物に入るともっとも目立つところに『資本論』が山のように積まれており、コミュニストでなくても友だち同士で『共産党宣言』の輪読会をするような雰囲気に包まれていた。

 

 一家4人が6畳一間で暮らすような貧しい家庭に育った。貧しさから解放されて親に楽をさせてあげたい、そのために商社か銀行に勤めたいということが、大学(一橋大学)を選んだ最大の動機だった。だが、共産主義の思想を勉強して感じ取ったのは、自分一人が解放される道を選ぶのではなく、貧しさにあえいでいる多くの人々をともに解放することが大事であり、そのためには共産主義をめざすべきだということだったのだ。

 

 とはいっても、目の前の共産主義国家のていたらくは、目を覆いたくなる惨状である。当時、中国に存在感はなかったが、ソ連はその後もずっと続く一党独裁の国で、小説『収容所群島』で強制収容所の実態を暴いたノーベル賞作家のソルジェニーツィンを国外追放するなど(74年)、世界中からひんしゅくを買っていた。アフガニスタンに侵略するなど(79年)、世界の平和を脅かす存在でもあった。

 

 政治体制がダメなのは常識だが、経済は少しは良かったのかというと、そんなこともない。共産党指導下の青年組織である民主青年同盟の国際部長を勤めた時期があったのだが(80年以降)、「発達した社会主義国」を標榜するソ連の共産主義青年同盟(コムソモール)の代表がやってくると、「全般的危機」にあるはずの資本主義国の我々に対して、「シェーバーをプレゼントしてほしい」とおねだりするのである。日本製のものを渡そうとすると、「いや、ひげが濃いので、ブラウンでなければ」とごねる。社会主義国の指導的立場にある人でも、自国の体制が優位にあるなど少しも思っていないどころか、外に向かってそれを隠そうとさえしなかったわけだ。

 

 そもそも出発点が低かったのだから仕方がない、貧しいなりに社会主義らしく平等を重視したり、人間を大切にしているところを評価しようと努力もしてみた。例えば、妊娠した女性に対する産休や育児休暇の保障などは世界レベルでも高い数値であり、「男女平等の分野では優位なところがある」と宣伝したこともある。確かに、統計の数字上は、そういうことも言えた。しかし、のちにILOの報告などで明らかになったのは、ソ連ではそうやって女性に特化して権利を保障することによって、女性だけが育児や家事にしばりつけられる不平等社会が築かれていたということだ。

 

 カール・マルクスが唱えた共産主義というのは、マルクス主義を知っている人にしか通用しない言葉ではなく、現代の国際政治でも通じる概念に置き換えて言うと、国民の自由権(政治的権利など)も社会権(生存権など)も、等しく高いレベルで保障されている社会のはずであった。ところが現実の社会主義はそれとは真逆の存在だったわけである。

 

「もしも」の話になるけれど、自分がソ連や中国、北朝鮮で生まれていたとしたら、そしてコミュニストとしての素養を積んでいたら、その国の体制を容認できるのかが問われていた。わたしは、自分が学んできたコミュニズムの思想と照らして、目の前の体制が社会主義だとは少しも思わないだろうし、その体制を打倒しなければならないと決意するだろうと考えた。最近、ベルリンの壁崩壊前夜の東ドイツの姿を描いた小説『革命前夜』(須賀しのぶ)を読み、共産主義体制を倒したあとに資本主義でもない新たな体制を望む人々がいたことを知ったが、その体制がどんなものかを提起できない状況では、倒れた先に資本主義しか待っていなかったことは歴史の必然だったと考える。(続)