政治的権利と社会的権利の双方を実現することの大事さというのは、いまや社会主義だけに固有のものではない。国連で自由権規約と社会権規約の双方が採択されているのだから、当然である。

 

 ところが、マルクスの時代も現代も、社会権の実現がそう簡単ではない。貧困と格差がなくならないどころか、黙っていると広がっていく。そこに生産手段の社会化という、社会権を達成する上での欠かせない手段を提示したところに、マルクスの新しさがあったわけだ(あえて言えば、マルクスが社会主義の要素として自由権を言わなかったのは、あまりにも当然のことであったからで、マルクスが生きていたら、自由権が奪われた国を社会主義と評価することはなかっただろう)。

 

 だが、生産手段を社会化したはずのソ連、東欧で社会権が十分に達成されず、もちろん自由権は資本主義にさえ及ばないという現実があり、崩壊していく。その過程で、なんとかもちこたえようとする努力もあった。そして中国も「社会主義市場経済」というあらたなアプローチでそれに挑戦しようとしている。

 

 資本主義をそのまま放置してはいけないという点では、そういう社会主義を名乗る国だけでなく、まさにその資本主義国の中でもいろいろな努力があり、模索がある。そういう模索が大事なのと同じように、社会主義を名乗る国の模索からも、もし貴重なものがあるなら学ばねばならない。

 

 そういう点で、これまで中国が達成したもののうち、資本主義を乗り越えるような貴重なものが含まれているなら、それは評価するべきだと考える。「資本主義国でもそうすべきではないですか」「そういうことをできる日本をつくりましょう」と言えるような成果である。ソ連にも当初はそういうものがあって(八時間労働制とか)、だからこそ資本主義の側は対応を余儀なくされ、人々の暮らしが改善されることにつながったのである。

 

 ただしかし、それは将来の社会主義にも受け継がれるべきとして、じゃあそういうことをやっているから中国を社会主義と呼ぶべきかというと、私はそうは思わない。人々の暮らしの改善につながることは、社会体制の違いを超えて、社会主義であれ資本主義であれ挑むべきものだ。社会主義と呼ばれるべきは、やはり自由権と社会権の双方が満たされた国である。ただ、この議論から分かっていただけると思うが、社会主義と呼ばないからといって、それは中国の努力を評価していないということではないのだ。

 

 では、これまで社会主義の特徴とされてきた、生産手段の社会的所有ということとの関係はどうなるのか。マルクスの予想に反して、生産手段の社会的所有を実現しないで双方の権利が満たされる国があらわれたとたら、その国を社会主義と呼ぶべきなのか。(続)