北朝鮮人権法が問題になってくる2006年頃、重大な人権侵害が国際問題であることも、北朝鮮の人権問題がそういう性格の問題であることも、いわば常識に属することであった。国連人権委員会(現在は人権理事会に改組)は2003年、北朝鮮人権状況を批判する決議をはじめて採択した。翌04年、北朝鮮は人権問題の「特別手続」の対象国となり、それにより人権問題を調査し、国連に報告するための「特別報告者」が任命されたのである。

 

 「特別手続」とは、重大な人権侵害が行われている国を対象に「特別報告者」を任命して調査し、その1年間にわたる調査報告を受けて批判決議を採択して、当該国に人権状況の改善を求めるやり方である。1960年代に南アフリカのアパルトヘイトを批判するために開始され、その後、ピノチェト独裁下のチリやイスラエル(によるパレスチナ人の人権侵害)などが対象国になってきた。国連安保理は南アのアパルトヘイトについて「国際の平和と安全を脅かす」と認定していたが、これは国連による強制措置(経済制裁と軍事制裁)を規定した国連憲章第7章を引いたものであり、重大な人権侵害に対してはそこまでの位置づけを与えていたのである。

 

 北朝鮮の人権状況はこれらの国に負けず劣らず深刻なものであったが、国連人権理事会がこのような試みを開始した当時、人権問題を扱う欧米のNGOの関心は北朝鮮に向かっていなかった。閉鎖的な国で情報もオモテに出てこなかった。しかし、90年代になって北朝鮮に大規模な飢餓が発生し(死者は45万とも200万とも言われる)、それに伴って大量の脱北者が出ることにより、人権状況の深刻さがリアルに伝わってきた。こうして北朝鮮を「特別手続」の対象にする合意が形成されたのである。

 

 北朝鮮の人権状況をはじめて批判する国連決議が採択された2003年頃の共産党は、いわゆる「野党外交」に熱心だったときで、拉致問題で北朝鮮を説得することも想定していた。当時、さすがに日本人拉致問題では、経済制裁なども視野に入れて対応することを述べていたが、北朝鮮人権問題一般では、それまでの「重大な人権侵害は国際問題」「だから公然と批判する」という見地を維持するかどうか揺れていた。

 

 ちょうど2003年、いわゆるセクハラ問題で筆坂秀世さんが退き、04年1月に小池晃氏が政策委員長に就任して私の上司になったわけだが、初出席の常任幹部会の会議で北朝鮮の人権問題が議題となる。小池さんは事前の政策委員会での打合せにもとづき、「重大な人権侵害は国際問題」「経済制裁も手段としてあり得る」という立場で発言したが、それに対して他の方々から厳しい批判が寄せられ、激論になったと聞いた。上田耕一郎服委員長(故人)は、「経済制裁に失敗したら戦争になるんだぞ。そうやすやすと経済制裁を口にするな」と小池さんを叱責したそうだ。会議から戻ってきた小池さんが、「常任幹部会の会議って激しいんですね。これに比べれば国会の予算委員会の論戦なんて、学校のクラス討論のようなものだ」と言っておられたのを印象深く記憶している。(続)