昨日から東京出張している。明後日までの合計4日間だ。

 

 やることは山のようにある。昨日は国際人道法を日本の法体系で具体化するという作業を開始するため、国会議員や弁護士さんと打ち合わせした。その後、『平和のための安全保障論』の仕上げのための議論。夜は「支え合う社会研究会」の会議で、少し煮詰まってきた感じはあるが、まだまだ先は見えない。

 

 本日午前は、柳澤協二さんとお会いして、「自衛隊を活かす会」でつくっている『抑止力神話の先へ』(仮)という本と、今後の会の活動についてご相談してきた。国民投票に向けてますますやるべきことが増えている。

 

 そして午後は、『資本論』編纂の在り方について、研究者とご相談である。これは何年がかりの仕事になるだろうか。

 

 最近、新日本出版社から、『資本論』の新編集版が出された。同社は、30年前にも『資本論』の新訳を出しているが、それはかなりの訳者の共同作業で、それと社会科学研究所の共同作業ということになっていた。今回、その時の訳者が外れ、社会科学研究所が単独で責任を負うというスタイルである。

 

 新編集版の打ち出しは、マルクスがきわめて重要な理論的発見をしたのに、エンゲルスが編集にあたって『資本論』に反映しなかった。だから、それを反映した新しい版をつくるのだということである。

 

 これについて、何十年も『資本論』を研究してきた方々から、いろいろなご意見が噴出している。種類はいろいろだ。

 

 まず、それが重要な理論的発見なのかという問題がある。さらに、そんな重要な発見をしたのに、なぜマルクスは『資本論』の編集を頼んでいたエンゲルスにその「発見」を伝えなかったのかという問題もある。さらにさらに、そうやって著者や著者が編集を頼んだ人がつくったのとまったく違うのもを、そもそも『資本論』と呼べるのかという問題もある。

 

 いずれにせよ、間違いを正した『資本論』だという売り出しなのだから、これはもう学問上の問題であって、学会レベル、学者レベルの議論に移行していく問題なのだと思う。内部的な問題ではない。

 

 どうせなら、『資本論』はそもそもどういう経過で生まれ、どういう意図でこれまで編纂され、新MEGAなども誕生してきたのかという歴史的、理論的な流れのなかで、今回の新編集版を位置づけるような、そんな本を出したいなと感じる。まあ、新版が全部揃うのは2年後なので、それを超える年数で準備することになるのだろうけれど。