昨日、神戸でお話ししてきました。『日韓が和解する日』のデビューですね。

 

 人前でお話しする機会は多いですが、この本についてというか、そもそも日韓関係についてお話しするのは初めてです。どのように話を組み立てれば意図が伝わるのか、その経験値がない状態だったということです。

 

 お話をしてみて、多くの方が、ある思い込みを前提にして聞いていることが分かりました。何かというと、日本政府は請求権協定で解決済みと言っているが、国家が協定を結んでも個人の請求権は残っており(それは政府も認めており)、だから韓国の裁判の結果をふまえて徴用工の権利を満たす措置をとるべきだという論理で、多くの方が考えているということでした(まあ、日本国民多数は「解決済み」と思っており、私の講演会などに参加する特定の人々の枠内の話ではありますが)。

 

 いやあ、そこが違うんですよ。そこを間違えると、適切な解決策に至らないと思います。

 

 一般的に言って、国家が請求権を放棄する条約を結んでも、個人の請求権が残ることは当然です。国家にはそんな権利はありません。

 

 しかし、韓国の大法院判決が述べているのは、そんなことではないのです。65年の請求権協定は徴用工の未払い賃金などの支払に充てることを日韓両国政府が議論してつくられたもので、徴用工の権利を満たすことが勘案されているのです。しかも、少ないとはいえ、そういう認識のもとに、徴用工の請求権行使に応えて、韓国政府は日本側のおカネを原資にして、何回か法律をつくっておカネを徴用工に支払っているのです。

 

 こうやって徴用工の請求権は行使され、おカネを受け取っているのに、なぜまだ個人の請求権は残っていると言えるのか。通常、そんなことは考えられないでしょう。そんな理屈が通用するなら、権利を行使して何回、何十回おカネを受け取っても、ずっと将来にわたって権利は残り続けることになってしまいます。そういう論理は破綻しているのです。

 

 大法院判決というのは、そういう論理を否定して、新しい請求権の論理を編み出したところに重要な特徴があるのです。ところが、日本政府の側も、徴用工に寄り添っていると主張する側も、その大事な点をスルーして、「個人の請求権は残っているか、法的に解決済みか」という従来型の論理の枠内で議論している。

 

 そんな認識で何らかの解決策が出てきても、それは大法院判決の論理に応えるものにはならないでしょう。結局、そういう解決策は、これまで慰安婦問題の解決策が受けいれられなかったように、破綻を繰り返していくことになります。そして、「なんだ韓国側はまたゴールポストを動かしたのか」となって、嫌韓世論を増幅させることになりかねません。

 

 今後のお話は、それをまずお話ししなくちゃね。よく理解できました。