共産主義と言っても、その最高の段階は国家が死滅することになっているので(理論的にだが)、その段階での憲法を論じても無意味である。したがって、ここで論じるのは、まだ国家が存在し、国家権力を縛る必要性がある段階での共産主義だと断っておく。

 

 これまで共産主義を掲げた国はいくつも生まれ、いくつも滅びていったが、憲法問題で共通するのは、どこも共産党が支配する国家であることを憲法に明示していたことである。こんなバカバカしいことを平気で、共通して掲げることになったのかは、よくよく考えいておいたほうがいい。

 

 これって、要するに、政権交代はないということの表明である。選挙の結果がどうであろうが(実際は普通選挙もされないのであるが)、共産党が国家を支配し続けるということなのだから。

 

 おそらく、その理論的バックボーンになっているのは、史的唯物論の公式である。世界の歴史は、原始共同体→奴隷制→封建制→資本主義と進んできていて、その次に来るのが社会主義というのが公式である。一直線に進んでくるのであるから、社会主義政権が資本主義政権に逆戻りするのは世界史の発展法則からしてあり得ないことだから、憲法にこんなことを書いても少しもおかしいと思わないわけだ。

 

 ただ、マルクスについていうと、こんな馬鹿げたことは考えていなかった。まだ20歳代の頃、ドイツ3月革命を戦ったとき、「新ライン新聞」において、こう書いている。

 

 「小市民と農民、ましてプロレタリアは、彼らの利益を主張するうえで、民主的共和制よりもすぐれた国家形態を見いだすことができるだろうか?」(『全集』第6巻212ページ)

 

 これは、マルクスが共産主義者になる前、資本主義の枠内での変革を目指していた時代のものである。常識的な主張であった。

 

 なお、共和制というのは、世襲による君主制とは異なり、主権が複数者にある体制のことを指す。その複数が人民であれば「民主共和制」であり、世襲でない貴族などにあれば「寡頭的共和制」などと呼ばれる。

 

 マルクスは、共産主義者となり、共産主義国家の構想を練るようになってからも、国家体制としては「民主共和制」という主張を変えなかった。1871年にできたパリ・コミューンをマルクスは「労働者の政府」(すなわち社会主義の政府)として高く評価するのであるが、それは民主共和制の中でも以下のような特徴を持っていたからであった。

 

 一つは「常備軍」をなくすなど、「純然たる抑圧機関」を廃止したことである。代わりに人民自身が武装する。

 

 二つは、議員を選挙で選び、市民に対して責任を持たせる。高級官僚も特権はなくなった。

 

 最後に「同時に執行し立法する行動的機関」をつくったことである。議会の上に執行権力がそびえるのでなく、市民が選んだ議会がそのまま執行権力ともなるということだ。

 

 その後、実際に社会主義となった国の憲法をもしマルクスが見たら、涙が止まらないだろうね。きっと。(続)