以前、中国の全人代の記事を書いたことがある。要するに、中国で共産主義を高い段階に発展させることと、中国の軍事力を超一級のものにしていくことを関連づけるという方針に対して、それは共産主義とは違うだろうと異議を唱えたものだった。

 

 共産主義(科学的社会主義)の理論によれば、軍事力などの暴力装置は、社会が共産主義の段階に達し、国家が死滅する(眠り込む)にしたがってなくなっていくものである。それなのに、共産主義が発達するにつれ、暴力装置まで発達するなんて、中国は共産主義とは正反対の理論を持っているのだ。それが共産主義を名乗っているのだから、困ったものである。

 

 ただ、この日本には、それとは真逆の意味で、共産主義と暴力装置の関係を捉えている人もいる。国家権力が死滅しない段階で、自衛隊などの暴力装置をなくせるという考え方である。

 

 まあ、平和主義というか、善意で言ってはいるのである。でも、普通の市民が言うのは構わないけれど、国家権力とか暴力装置の理論を身につけているはずの共産主義者までそういうことを言うのは、果たしてどうなのだろうか。

 

 共産主義の理論によれば、たとえ社会主義の政権ができたとしても、国家権力は存続するのであり、高い段階に到達するまでに暴力装置もなくなることはあり得ない。マルクスもエンゲルスも、レーニンも、軍隊をなくすことなど一言も言及していないのは、それが理論的に当然だからである。

 

 マルクス、エンゲルス、レーニンが間違っているというのであれば、公然と批判しなければならない。もし、日本では社会主義の条件がヨーロッパと違うというのであれば、それを明らかにしなければならない。

 

 あるいは、憲法に反する共産主義の理論は採用しないというか、さらに進んで共産主義の理論より憲法が大切というなら、それはそれでよい。ただ、その場合は、共産主義を掲げるのはただちに中止し、「憲法実現党」とか、そんな名称にすべきであろう。

 

 もし、理論を大切にするならば、ということであるけれど。本日は(も?)堅い話で申し訳ありません。