日本国憲法に言論の自由をはじめとした基本的人権が規定されていて、その憲法を遵守する義務が総理大臣をはじめとする公務員にある。だから人権を守るべきは国家だと言う人がいる。

 

 それ自体は間違いなくて、実際の現場のことを考えても、例えば暴徒が言論の自由に襲いかかる場面で、警察権力に対して「許すな、守れ」と要求するだろう。当然のことだ。

 

 しかし、権力が人権を守る側にあるというのは、建前というか擬制である。まさか憲法に「権力は人権を侵す存在だ」と書くこともできないし、少なくとも「我々は人権を守ります」と権力に言わせるだけの力を国民が持ってきているので、そうなっているだけである。

 

 だって、人権の歴史を見れば、そのことは明らかだ。人権は、それを侵そうとする権力との血みどろの闘いを通じて、人民が勝ち取ってきたのである。日本国憲法に「基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(97条)と書かれているが、その「自由獲得の努力」とは権力との闘いのことを意味している。

 

 だから、言論をする人が、「ボクは言論をする人」で、「言論の自由を守る人は別にいる」と考えたら、それは正しくない。というか、大きな間違いだ。

 

 こんなことを考えるのは、私が長く、共産党の中央委員会で仕事してきたことの影響もあるかもしれない。言論は自分で守るということを徹底的に教えられた。

 

 例えば共産党が集会をするとき、演壇の一番近い数列は、あらかじめ「あなたの任務は防衛」と言われた党員が座る。何者かが演壇に駆け上がろうとしたら、それを阻止するのが仕事だ。そうやって言論の自由を守るのだ。

 

 あるいは、共産党の事務所の中には、防衛の訓練をする場所もあって、時々その部屋で訓練を課される。まあ、素人の訓練だから、相手がピストルで襲ってきたとき、何か有効なことをできるわけではないのだが、「ピストルで撃たれてもほとんどズレて当たりませんから」と教えて安心させてくれたりもする。

 

 防衛に専任する人もいる。大変だなあと思うが、頑張っている。幹部が襲われそうになったとき、もちろん暴徒を制圧できればそれに越したことはないのだが、それができない場合も、とにかく暴徒と幹部の間に身を入れることだけはできるように訓練されているのだ。

 

 まあ、もちろん、言論の自由を守るための、もっと政治的な闘いも重要である。しかし、そうやって身を挺して言論の自由を守る気概がないと、やはりそれは守れない。言論をする人は、言論の自由は自分で守るという覚悟が不可欠なのだ。(続)