あいちトリエンナーレが話題になっていて、いろんな人が、いろいろな論評をしている。私はこの全般を語るほどの問題意識はないのだが、自分なりに考えることだけ書いておきたい。

 

 この問題の経過を通して不消化というか、モヤモヤ感が残るのは、芸術監督の津田大介さんの対応が腑に落ちないからだ。多くの人が指摘することだけれど。

 

 この展示会のことが公表されたとき、少なくない人は、展示の内容に賛成であれ、反対であれ、主催者の「覚悟」を感じ取ったと思う。現在のこの日本で、こういう展示をやろうということだから、当然、いろいろな圧力があることは前提で、それをはねつけるだけの「覚悟」があるのだろうと。その期待度の高さと比べてしまうから、中止の決断が、あまりにもなよなよっとした感じに映った。

 

 実際のことは知らない。おそらく、かかってくる脅迫電話の量も内容も半端じゃなかったのだろう。担当する愛知県職員の疲弊と恐怖も相当なものだったはずだ。京アニの事件のなまなましい記憶が継続しているわけだから、あの脅迫の仕方が与えた影響の大きさは察するに余りある。

 

 担当する職員に対して、主催する側が、主催者と同じ覚悟を求めることはできないと思う。「仕事なのだから、憲法を守るために、多少の恐怖は我慢してください。ガソリンが撒かれても何とかします」とは言えない。

 

 けれども、主催者自身は違うだろう。恐怖に打ち勝つ覚悟のある人のはずだ。言論の自由は命をかけて守る覚悟のある人だから、そういう作品をつくり、展示会を企画し、実施するのだと思う。

 

 それだったら、今回のようなことが起きることは予想できたのだから、命にかかわる事態を予想して、それにどう対応するのかもしっかりと持っておくべきだったと思う。予め、主催者、出品者、支援者で集団をつくり、外からかかってくる電話、会場の受付、防衛などについても職員だけに任せるのでなく、危険な部分は自分たちで引きうけるようにしておくとか。

 

 今回、出品者がつくる実行委員会が、中止を決断した県などでつくる実行委員会(津田さんを含む)に抗議していることが、問題をわかりにくくしている。この出品者たちが、自分たちの言論の自由を守るためなのだから、中止の決断に抗議するのは当然だろう。しかし、自分たちの言論の自由を守るためなのだから、職員に迷惑をかけられないと率直に相談されたら、自分たちで何とかしようと動いたのではないか。

 

 津田さんと出品者は、そういう程度のことも率直に話し合えない程度の関係だったのか。それだけのことをやって、出品者たちが「これ以上は自分には対応できない」とでもなっていたら、結末はまた違っていたかもしれない。

 

 言論の自由とは、誰か(公権力、警察、公務員)に守ってもらうものではない。自由を獲得したいと願う人が、自分で勝ち取るものである。次回はそのことについて。(続)