小説。著者は中野慶。弊社の近刊である(私が担当したわけではないが)。帯には以下のようにある。

 

 「ラグビーに没頭してきた高校生の鉄朗はあるきっかけから軍馬を通して昭和史をみつめる市民講座に出会いみずみずしい身体感覚で瞠目すべき知の旅に出る。どう転がるかわからない人生と歴史の偶然を対話を通じて掴もうとする市井の人びと。友人、親、自らと格闘する高校生たち。近現代史とどう向きあうかを探る実験的小説!」

 

 そう、「実験的小説」なのである。どこが「実験」なのか考えながら読む。

 

 筆者自身も高校の時に実際にラグビー部に所属し、大学では近現代史を学んだそうだ。そういう意味では、筆者の人生が投影された小説ともいえるが、その後の何十年かの人生の中で、おそらくかつて学んだ近現代史解釈への懐疑がうまれ、学び直しを模索してきた。その心の「揺れ」をラグビーの「楕円球」に模しているわけだ。

 

 例えば、この小説の中で、首相であった斉藤実の評価の問題が議論される。最近なにかと話題になる朝鮮総督も務め、小林多喜二が虐殺されたときの首相であり、国際連盟脱退も斉藤首相時代である。反動と位置づけることは容易だ。

 

 しかし一方、その斉藤実も、数年後には2.26事件で陸軍青年将校による最大の標的とされ、死亡する。もともと幣原喜重郎とともに日本海軍の軍縮を指導した経歴も持つ。近現代史を「悪」の政治指導者、「善」の民衆と区別するような歴史観で裁断すると、斉藤の占める位置はなくなってくる。

 

 市民講座での豊かな歴史観との遭遇を題材にしながら著者の成長を描くという試みは、たしかに「実験」的である。そのことを通じて、歴史観そのものの多様性も描いてくれる。

 

 いま現在に引きつけて言えば、なぜ日韓は歴史観でこれほど対立するのかという問題でもある。もちろん、日本が支配した歴史的責任は消えることはないが、それだけで問題が解決するわけではないのだから。

 

 なお、軍馬については、関連する文献を渉猟し、整理して紹介されている。関心を持っている方には、その歴史的考証だけでも有益であろう。

 

 注文を一つ。著者プロフィール欄に、この本のことを「一般向けの小説として第一作」とある。そうか、第二作、第三作も構想しているなら、是非、続きを書いてほしい。

 

 タイトルで言うなら『斉藤実と小林多喜二』かな。現代の視点からではなく、近現代史を生きた当事者の視点で描けると、もっと深みが増すような気がする。最後は、斉藤が凶弾に倒れる際、小林多喜二のことが脳裏に浮かぶ場面とか。

 

 いや、筆者でないものが先走ってはいけないね。面白かったです。ありがとう。