前回述べたように、韓国の解放のありようは国民に勝利の実感をもたらさず、戦後における韓国の発言権は弱いものになった。日本が東南アジアの一部の国とは「賠償協定」を結んだが、韓国との間では「請求権協定」で済ませたのも、その一つの反映である。

 

 戦後処理を決めた一九五一年のサンフランシスコ平和会議において、アメリカは、日本をみずからの勢力圏に組み入れるため、日本に対する賠償を求めないことで押し切ろうとした。しかし、会議に参加した東南アジア諸国はそれを赦さなかったため、会議後、日本はいくつかの国との間で賠償協定を締結するのである。

 

 一方、韓国は、そもそも平和会議への参加を認められず、賠償を要求する場さえ与えられなかった。その論理は、「韓国は日本と戦争していないから」というものであった。

 

 形式的に言えばその通りである。けれども、例えばフランスにしても、大戦中はドイツに支配されていて、ノルマンジー上陸作戦などを通じて連合国に助けられたわけで、韓国と似たような地位にあったと言えないこともない。それなのにフランスは、連合国の一員として数えられ、連合国主導でつくられた国際連合では安保理常任理事国のメンバーにまで登り詰めている。それはなぜかと言えば、イギリスに亡命したドゴールが「自由フランス」を名乗り、フランス本土での軍事行動まではできなかったが、アルジェリアなど植民地の多くを味方につけ、ノルマンジー上陸作戦においても連合国の一員として部隊を派遣できたからである。

 

 韓国もまた、上海に臨時政府をつくり、フランスと同様、連合国の一員になりたいと申し出た。しかしアメリカがそれに反対して実現しなかった。サンフランシスコ平和会議への参加を認めなかったのもアメリカである。そこには、韓国が上海に亡命政府をつくったが、日本軍と実質的な戦争をできなかったという点で、フランスとは違いがあったからなのだ。

 

 同時に、そういう実態のない韓国を連合国として認め、平和会議に参加させるとなれば、植民地の地位を向上させることになりかねない。そうなれば欧米諸国の植民地支配の正統性も問われかねないという事情があったことも現実である。日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判においても、植民地支配の問題は当然のこととして日本の罪の要因とはされなかった。

 

 こうして韓国は、日本に違法性を認めさせる絶好の機会を失うことになる。サンフランシスコ会議で合意された平和条約は、第二条で日本が朝鮮半島を放棄することを規定した上で、「(第二条地域に対する)日本国及びその国民の請求権」も、また「(第二条地域の)当局及び住民の請求権」も、「日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とする」(第四条)とした。つまり、日本と朝鮮半島との間の問題は賠償ではなく請求権の問題であること、朝鮮半島の当局と住民だけでなく日本側にも請求権が存在していることを確認したのであった。

 

 この考え方を韓国がくつがえそうとすると、「特別取極」をつくるための日本との二国間の条約交渉の場しかなかったし、尋常でない努力が不可欠であった。しかし、戦後のこの地域における国際関係はそれを許さないものとなる。