岩屋防衛大臣が自民党内や右派からのバッシングを受けている。いわゆるレーダー照射問題を韓国との会談で棚上げすることを表明したからだ。

 

 レーダー照射問題は、保守的な常識からすると、どこかで折り合わなければならない問題だ。だって、この対立をわれわれが知っているということは、北朝鮮も知っているということであり、どう利用されるかわからないからである。自民党政府としては常識の範囲内で対応しているだけなのである。

 

 右派・保守派のかなりの部分が、それでも韓国と妥協してはならないと主張する。いや、北朝鮮の脅威など取るに足らないから、徹底的に韓国と闘えというのが本音であるなら、私としては歓迎する一面もあるのだけれど、北朝鮮の脅威は変わらないわ、韓国と妥協してもならないわでは、何の説得力もない。ただ、憂さ晴らしをしているだけのように見える。

 

 まあ、それだけ、日韓関係の現状は深刻だということだろう。この対立は、そもそもは37年間の植民地支配にあるのだが、日韓の戦後史もじつは対立を秘めたまま70年が過ぎ、それがいまになって爆発していることを知らないといけないと感じる。

 

 植民地支配の終焉が他の植民地と似たようなものだったら、問題をここまで引きずることはなかったかもしれない。通常、宗主国がみずから植民地を手放すことはない。だから、植民地の多くは、独立国家をつくるために、まさに血のにじむような戦いを余儀なくされる。宗主国を敗北させ、追いだすために、何年、何十年もの命をかけた戦い、戦争をおこなうのである。

 

 そこには被害がつきまとうが、大事なことは、その結果、植民地の人々は「勝利者」になるということだ。支配されていた時代の苦しみや被害を忘れることはないにしても、支配・被支配関係から自分の力で抜け出し、ただただ支配されていたという屈辱感から解放されるのである。

 

 けれども、日本による朝鮮半島支配の終焉、あるいは朝鮮半島の人々にとっての解放は、1945年8月15日、突然に訪れることになった。1919年の3・1独立運動のあと、一部の人々は上海で李承晩を首班として「大韓民国臨時政府」を組織したが、その免職後に国務総理を務めた金九(キム・グ)は、解放の日を次のような危惧を持って迎えることになる。

 

 「わたしにとっては嬉しいニュースというよりは、天が崩れるような感じのことだった。……心配だったのは、われわれがこの戦争でなんの役割も果たしていないために、将来の国際関係においての発言権が弱くなるだろうということだ」(『白凡逸志──金九自叙伝』東洋文庫)

 

 韓国の解放は国民の勝利の実感をもたらさなかった。さらに金九が懸念した通り、戦後における韓国の発言権は弱いものになったのである。(続)